ショパン:マズルカ 第56番  変ロ長調 遺作 KK IVb-1/BI 73

♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:マズルカ 第56番  変ロ長調 遺作 by Tomoro




Chopin : Mazurka No.56 in B♭ major Op.posth. /Tomoro

● 作曲年:1832年
● 出版年:1909年
● 献呈者:アレクサンドリーヌ・ヴォウォフスカ嬢


 【ジャンル解説】
マズルカは、ショパンの祖国ポーランドの民族舞踏の一種です。
中部マゾフシェ地方の快活なマズル、
西部クヤヴィ地方のゆったりしたクヤヴィアク、
南部シロンスク地方の急速なオベレク、
の三つに分類され、主に農民によって踊り継がれてきました。

ショパンのマズルカは、それら三つの要素を巧みに融合させながら、独創的で芸術性の高い作品に仕上げられています。


 【作品解説】
この《マズルカ 第56番》(※版によっては《第55番》としているものもあります)は、作曲者の生前には出版されませんでした。
尚、こう言った作品を系統だって分類する手立てとして、ポーランドのショパン研究家クリスティナ・コビランスカ(Krystyna Kobylańska)による『作品番号のない作品目録』の分類番号「KK」があり、そこではこの作品は「KK IVb-1」とされています。
更に、 モーリス・J.E.ブラウン(Maurice J.E. Brown)がショパンの全作品に与えた作曲順の通し番号「BI」では、この作品は「BI 73」とされています。


このマズルカは、アレクサンドリーヌ・ヴォウォフスカ嬢に個人的に献呈されていたので、公式の出版作品とはならなかったようです。
最新のナショナル・エディション(エキエル版)のマズルカ遺作集では、《第44番  ト長調 作品67-1》に続いて7番目に収録されています。
同書の解説によると、ヴォウォフスカ嬢のアルバムに書き込まれた自筆譜には“パリ、1832年6月24日”の日付と署名があったとの事です。

ショパンがパリに到着したのは1831年9月半ば過ぎ頃とされていますが、実は、それ以降、父ニコラが1844年に亡くなるまでの13年間、ショパンがワルシャワの実家宛に出した手紙が全て失われてしまったため、この当時の彼のプライベートに関する情報はかなり乏しく、あまり詳しい事が分かりません。
※これは、1863年のワルシャワ蜂起でショパンの実家が被害に遭い、その際に焼失したためです。姉ルドヴィカの嫁ぎ先に出したものは被害を免れたので数通残っています。また、ニコラの死後はルドヴィカ宛に出されるようになったので、それ以降のものは多数残っています(それらも既に現物はなく、内容が公表されていたお陰でテキスト上残っているだけです)。


ただし、逆にワルシャワの家族からパリのショパン宛に出された手紙の方はいくつか残っているので、そこから間接的な情報が少し得られます。
それによると、この《マズルカ 第56番》が書かれるより2週間半ほど前に、ショパンは次のような手紙を家族宛に書いていたようです。

「6月6日付のお前の手紙から、お前が幸運にも、ゴロツキどもに扇動されて起こった暴動に巻き込まれなかった事が分かって、嬉しく思う。いくつかの新聞が言っているところでは、ポーランド人が参加し、彼らが享受している厚遇を悪用しているとの事だ:そのような愚かな行為はもう十分じゃないのか? こちら(※ワルシャワ)では紛争を起こす理由は十分にあった。(※そちらでは)彼らの破壊的な考えを分かち合うような狂った連中は少数だろうと確信している。国の穏健階層が勝利し、それで秩序が回復した事を神に感謝している。もちろん、お前の才能でもたらされる収入は一時的に止まりはしたが、しかしこれも長くは続くまい―平静を取り戻せば、芸術はいつだって回復するものだ。お前がどうしているか、それとお金はどれくらい持っているのか、私に知らせなさい。お前の立派な友人(※出版者のシュレンジンガー)は彼の言葉通りに、お前の作品のために料金を支払ってくれているか? お前が何を言おうと好きにすればいいが、しかし私は、お前が特定の人々を軽蔑するのには賛成できない。お前がどうして彼らに対して敵意を抱くようになったのか知らないが、それでも“糞”などと表現するのは好ましくない。とにかく、お前ももう十分に大人なのだから、お前自身で考えて物事を判断し、自分にせよ他の誰かにせよ、根拠のない話に流されないように。私が忠告するように節約して、一文無しにならないように、特に、お前が他の国を訪問するつもりなら尚更だ。」
(※1832年6月28日付「ワルシャワのニコラ・ショパンからパリの息子宛の手紙」より)


いかにも教育者の父親らしい内容ですが、ニコラがショパン宛に書く手紙は大体いつもこんな調子なんですよね。
ここから分かることは、当時パリでは暴動が起こったために演奏会が開けなくなっていて、せっかく2月にデビュー公演を成功させたのに、それ以降の音楽活動が滞ってしまっていたのでした。
その一方で、出版の契約を取り付けたシュレンジンガーとは、どうやら支払いをめぐってちょっとしたトラブルがあったようで(※ショパンは今後も出版者とのトラブルが絶えないのですが)、ショパンは経済的に苦しくなっていたようです。

おそらく、この年いきなりマズルカが量産されているのには、その辺の経済的事情も絡んでいたのではないでしょうか。
つまり、当時パリに多くいた亡命ポーランド貴族を相手に作品を個人献呈する事で臨時収入を得ていたのと、もう一つは、演奏会が開けないような状況では、パリ公演のメイン演目だった《ピアノ協奏曲 ホ短調》を出版しても売れる見込みがないので、これもやはり、亡命ポーランド人を相手にマズルカ等の小品を出版した方がいいと判断したのではないか…と言う事です。

当時のパリには、1830年の11月に勃発した「ワルシャワ蜂起」の失敗を受けて亡命して来たポーランド貴族達のサロンがあり、ショパンもそこに招待されていました。
ショパンのパリデビュー公演の客もほとんどが彼らだったと言われています。
ショパンは、彼らのサロンでは、求めに応じてマズルカやポロネーズ等の祖国の民族舞踏曲を演奏した事でしょうから、この《マズルカ 第56番》も、そんな中で書かれ、そして個人献呈されていたのだろうと思われます。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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