ショパン:マズルカ 第4番 変ホ短調 作品6-4

♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:マズルカ 第4番 変ホ短調 作品6-4 by Tomoro




Chopin : Mazurka No.4 in E ♭ minor Op.6-4 /Tomoro
● 作曲年:1832年
● 出版年:1832年
● 献呈者:ポーリーヌ・プラーテル伯爵令嬢


 【ジャンル解説】
マズルカは、ショパンの祖国ポーランドの民族舞踏の一種です。
中部マゾフシェ地方の快活なマズル、
西部クヤヴィ地方のゆったりしたクヤヴィアク、
南部シロンスク地方の急速なオベレク、
の三つに分類され、主に農民によって踊り継がれてきました。

ショパンのマズルカは、それら三つの要素を巧みに融合させながら、独創的で芸術性の高い作品に仕上げられています。


 【作品解説】
《マズルカ 第4番》は、《4つのマズルカ 作品6》として出版された中の第4曲目です。

この曲は、ショパンがパリに渡った翌年の1832年(※当時23歳)に作曲されました。
まるでスケッチのような簡素で短い曲ですが、短調で書かれているのに何処か爽やかな感じさえする、とても不思議な印象を残す作品です。


さて、前回はショパンがパリに渡って直の頃の手紙を紹介しましたが、今回はその直後に起きた事件、事件と言うとちょっと大げさですが、ちょっとした騒動についてお話したいと思います。

それは、私が個人的に「カルクブレンナー事件」と呼んでいるエピソードで、おそらくショパン・ファンなら大抵の人が知っているとは思いますが、私が興味を引かれたのは、それに関わった人々(ショパン本人、父ニコラ、姉ルドヴィカ、師エルスネル、そしてカルクブレンナー)のそれぞれの人間模様についてです。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミヒャエル・カルクブレンナー(Friedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner 1785-1849)はドイツのピアニスト兼作曲家で、ピアノ教師でもあり、また、プレイエルと共同でピアノ製造にも携わっていました。
ちょうど古典派とロマン派の橋渡し的な時代に活躍していたためか、後世における彼の評価は今一つですが、当時は当代きっての代表的な音楽家の一人とされていました。
現在の我々から見れば「クラシックの人」として一括りですが、いつの時代でも、その時その時に最新のものが流行の先端としてもてはやされ、もっとも消費される対象となるものです。それは今も昔も変わりません。ショパンの少年時代においては、カルクブレンナー、フンメル、フィールドらがそれであり、ベートーヴェンはもはやピークを過ぎていました。ですから、ショパンの少年時代の手紙には、勉強のために過去の偉人であるバッハやモーツァルトに触れるのとは違って、カルクブレンナーの作品をそのような対象として弾いていた事が書かれています(※その手紙はこちら)。要するに、現在でたとえるなら、その時にヒットしている歌をカラオケで歌う…みたいな事ですね。

つまり、ショパンにとってカルクブレンナーは、少年時代のアイドルと言ったら言い過ぎですが、まあそのような類いの対象だったと言ってもいいのではないでしょうか。
そのカルクブレンナーと、ショパンはパリ到着後間もなく知り合いになります。そして彼に気に入られ、弟子にならないかと誘われたのが「カルクブレンナー事件」と言う訳です。

前回紹介したクメルスキ宛の手紙にも、その事がそれとなく触れられていて、そこでは以下のように書かれていました。
「僕はこちらに3年は滞在するだろうと思う。僕は、ヨーロッパのピアニストの第一人者であるカルクブレンナーととても近しい関係になった。君も彼の事を好きになると思う。(彼は、僕が彼の靴紐を解くにも値しない唯一の人だ。あのエルツやその他の連中は、僕に言わせれば口先だけで、誰も彼以上には弾けない。)…(後略)…」
(※1831年11月18日付「パリのショパンからベルリンのノルベルト・アルフォンス・クメルスキ宛の手紙」より)

実は、ここで「3年」と書いてあるところがミソで、要するにこれは、カルクブレンナーがショパンに提示した弟子入り期間を指すものなんですね。つまりショパンは、この時点ではカルクブレンナーに弟子入りするつもりでいたらしい事が分かるのです。

そしてショパンは、その由をワルシャワの家族宛に詳しく書いて送っていたのですが、しかしその手紙は、残念ながら内容が公表されないまま戦火に失われてしまいました。その代わり、それに対する父ニコラからの返事の方は内容が公表され残されており、それによって間接的に以下の事が分かっています。

「我が親愛なる息子よ、お前からの最新の手紙で、パリでの滞在がおそらくお前にとって多くの点でウィーンより有利に働くだろう事が分かり、満足している。私は、お前が自らを捧げた芸術の分野で熟練するためのあらゆるチャンスを逃さないだろうと確信している。有名な芸術家達と知り合い、話をし、彼ら自身による自作の演奏を聞き、その経験は、その道を学ぼうとする若者に大きな利益をもたらすだろう。カルクブレンナー氏がお前に示してくれた友情に対しては、父として礼を言わなくてはなるまい。しかし、我が良き友よ、私に理解できないのは、彼がお前の才能を認めながらも、お前を一人前の芸術家にするために“しっかりした基礎”を作るのに、彼の指導の下でもう3年学ぶ必要があると言った事だ。私にはその言葉がどうしても理解できない、だからお前の真の友であるエルスネルにその意味を尋ねた、なので彼の手紙を参考にしてもらいたい。お前も分かっている通り、お前の技術や才能を開花させるために私の力で出来る事は全てしてきたつもりだし、お前の妨げになるような事は何もしなかった。また、お前は演奏テクニックにはそれほど多くの時間を犠牲にしなくても良かったし、指で弾く以上に音楽的理解に長けていた事も分かっている。他の者が一日中鍵盤に向かっていなければならないような他人の作品でも、お前はそれを習得するのに一時間とかからなかった。これら全ての事を考慮しても、3年と言う期間は私には考えられないのだ。しかし、私は何もお前に反対している訳ではなく、ただ、決めるのは後にして、忠告をよく聞き、もっとよく検討してくれれば幸いに思う。…(中略)…知り合ったばかりの人をあまり信用しないようお勧めする。…(後略)…」
(※1831年11月27日付「ワルシャワのニコラ・ショパンからパリのショパン宛の手紙」より)

いかにも、教育者でもある父親らしい内容の手紙で、ニコラは時に厳しい事も言いますが、基本的には、答えを一方的に押し付けるような事はせず、あくまでも自分で正解にたどり着くよう導く言い方をするんですね。
この手紙の日付は、ショパンがクメルスキに手紙を書いてから9日後になっており、これと同じ日付で姉ルドヴィカからの手紙と師エルスネルからの手紙も同封されていました。

ルドヴィカによれば、家族はみんな、最初はショパンからの手紙に感激して、カルクブレンナーが“神様のような人に見えた。”とさえ思っていたそうです。
ところが、ニコラはそうは思っていなかったので、翌日みんなでエルスネルの所へ行き、ルドヴィカがショパンの手紙を読み上げると、エルスネルは “ああ、もはや嫉妬だ! 3年だなんて!”と頭を振り、ルドヴィカがショパンの手紙からカルクブレンナーの美徳をどんなに引用しても、“私はフレデリックを知っている;彼はいい奴で、うぬぼれがなく、また、自分を前に押し出そうという願望もなく、簡単に影響されてしまう。私が彼に手紙を書いて、私がこの事をどう見ているか話そう。”と、カルクブレンナーの事を全く信用しなかったのです。
エルスネルに言わせると、“彼ら(※カルクブレンナーと、おそらくシマノフスカ夫人か?)はフレデリックに天性の才能を認め、もはや自分達が追い越されるのを恐れたのだ。だから彼を3年間自分達の手元に置いて、彼が自然に前に出て行こうとするのを引き戻したいのだ。シマノフスカ夫人( ※ポーランド出身の有名なピアニスト)がカルクブレンナーの言った事を提案したのだ:「彼は悪党だ」、だから彼は、少なくともフレデリックは自分の弟子だと言ってその権利を主張するために、フレデリックの才能に投資しようとしているのだ。カルクブレンナーは、芸術に対するあらゆる愛情を無視してでも、彼の本当の狙いは、フレデリックの才能を束縛する事なのだ。”
更にルドヴィカの報告では、エルスネルは、カルクブレンナーの言う“しっかりした基礎”についても、“もしもカルクブレンナーがこの「基礎」とやらを持っていたとしても、まあどうせテクニックに限った事で、そんなものは本人が望めば3年も弟子入りせずとも習得して自分のものに出来る。”と言っています。

ニコラの手紙は要点をまとめて簡潔でしたが、ルドヴィカの手紙は、まるで女性のおしゃべりと同じ勢いで事の一部始終を追っているので、一番長く、その上エルスネルの生の声もほとんどそのまま再現しているため、カルクブレンナーに対してもっとも辛らつです(彼女自身はショパンに賛同しているようですが)。
エルスネルは昔パリでカルクブレンナーの父親に会った事もあり、カルクブレンナーの人となりについての良くない噂も多く耳にしていたようです。
ショパン自身も友人に宛てた手紙では、彼は付き合う人間を選ぶので敵も多いような事を書いていました(実際カルクブレンナーには、貴族ぶって尊大なところがあったと多くの人が証言しています)。

一方、エルスネル自身がショパンに向けて書いた手紙では、ルドヴィカ達に語った言葉ほど感情的ではなく、さすがに先生然とした節度ある態度で慎重に言葉を選んでいます(エルスネルは、まさか自分のオフレコ・トークが全部ルドヴィカに暴露されていたとは夢にも思っていなかったでしょうね)。

ショパンは結局みんなの忠告を受け入れ、カルクブレンナーへの弟子入りは丁重にお断りしました(ただし、エルスネルの言う“嫉妬”については認めようとはしませんでした)。
それに対してカルクブレンナーは、それで気分を害する事もなく、その後もショパンのパリ・デビュー公演の世話をするなど(彼自身も共演しているのですが)、友好関係は続きます。
ショパンはその返礼として、公演でのメイン演目だった《ピアノ協奏曲 ホ短調》が1833年に出版された際、これをカルクブレンナーに献呈しました。

ところがです。その12年後の1845年の事、カルクブレンナーの孫弟子にあたるアメリカの作曲家兼ピアニストのルイス・モロー・ゴットシャルク(Louis Moreau Gottschalk 1829 – 1869)がプレイエル・ホールでパリ・デビューした時、ゴットシャルクはその《ピアノ協奏曲 ホ短調》を弾いたのですが、それに対してカルクブレンナーは、“誰があんな曲を弾けと言ったのかね、ショパンだなんて!…どうして私の曲を弾かなかったのかね。”と言い放ったそうです。

ところがです。その舌の根も乾かないうちに、カルクブレンナーはその年のクリスマスにショパン宛に次のような手紙を書いています。
「親愛なるショパン、私は君に大変なお願い事をしたいのです:私の息子アーサーが、大胆にも君の素晴らしい《ソナタ ロ短調》を弾きたがっていて、君からのアドバイスを熱心に望んでおり、なので、出来るだけ君の都合に合わせて彼を行かせようと思っています。君も知っているように、私がどれほど君の才能を愛し、私の馬鹿息子を授ける事に対するご好意にどれほど感謝しなければならないか、言う必要もないでしょう。…(後略)…」
(※1845年12月25日付「パリのフリードリヒ・カルクブレンナーからパリのショパン宛の手紙」より)

カルクブレンナーは裏表があるのか、よく分からない人ですね。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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