ショパン:ワルツ 第11番 変ト長調 作品70-1 遺作

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ショパン作曲:ワルツ 第11番 変ト長調 作品70-1 遺作(最新稿) by Tomoro




Chopin : Waltz No.11 in G flat major Op.70-1(latest version) /Tomoro

● 作曲年:1832年
● 出版年:1855年
● 献呈者:なし


 【ジャンル解説】
ワルツ(円舞曲)は、西オーストリア、南ドイツ(ハプスブルク帝国)を起源とする、比較的淡々としたリズムの3拍子の舞曲です。
ヨーゼフ・ランナー(Josef Lanner 1801-1843)はオーストリアの作曲家兼ヴァイオリニストで、「ワルツの始祖」とも呼ばれています。
ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I(Vater) 1804-1849)はオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストで、ウィンナ・ワルツの基礎を築いた事から「ワルツの父」とも呼ばれています。


 【作品解説】
この《ワルツ 第11番》は、作曲者の生前には出版されず、ショパンの死後、友人でもあったフォンタナによってまとめられた一連の遺作集に収められる形で公表されました。作品番号はその際にフォンタナが付けたものです。

この曲の作曲年については、1835年説と言うのもありますが、それはフォンタナが出版の際に使用した最新稿によるもので、ナショナル・エディション(エキエル版)のワルツ集(死後に発見された作品)の解説によると、この曲の最初期稿は1832年のものだと言う事です。
これは、ショパンがパリに渡った翌年になります(※当時23歳)。

エキエル版には、a、b、cの3つのバージョンが収められています。

  1. a 最新稿。いわゆるフォンタナ版で、一般に知られているのはこのバージョンです。
  2. b 準初期稿。エキエル版で初めて公表されたもので、フォンタナ版と最初期稿のちょうど中間のようなバージョン。
  3. c 最初期稿。ヘンレ版に異稿として収められていたものとほぼ同じです。

この3つのバージョンで一番興味深い違いは、速度指定でしょうか。
最新稿には「molto vivace(モルト・ヴィヴァーチェ=非常に快活に)」の速度指定がありますが、2つの初期稿にはそれがありません。
なので、元々は普通にゆったりめのワルツのテンポで書かれていたようです。
ただし、準初期稿の方には「leggeramente(レッジェーラメンテ=軽く優美に)」の発想標語があり、フォルテ(強く)しか書かれていない最初期稿よりは若干テンポアップしている感じがあります。
要するに、新しくなるにつれてテンポがどんどん速くなっていて、それに伴い、最終的に主部の付点が全て取り払われていった …という編曲過程が分かります。

この速度の変遷は、同じ年に書かれた《練習曲 第3番 ホ長調「別れの曲」》とちょうど逆の流れになります。
《練習曲 第3番》の方は、最初「ヴィヴァーチェ」だったのがだんだん遅くなっていきましたからね。

参考までに、最初期稿はこんな感じです。

ショパン作曲:ワルツ 第11番 変ト長調 作品70-1 遺作(最初期稿) by Tomoro




Chopin : Waltz No.11 in G flat major Op.70-1(earliest version) /Tomoro

ペダルは使われておらず、付点の他に、休符やスタッカート(音を短く切って)を多様する事で音楽的な変化をつけています…が、どうやらショパンはそれでも満足できなかったようで、結局テンポにテコ入れする事で根本的な改訂を施し、最終的に「brillante(ブリランテ=華やかに)」の発想標語を施してそれに相応しいワルツにしています。
ショパンは翌1833年、ついに《ワルツ 第1番 「華麗なる大円舞曲」》をモノにする訳ですが、それは正しく、この《第11番》で目指そうとした“ワルツ・ブリランテ”の結実した形だったのではないでしょうか。
そしてそれこそが、廃れかけていたウィーンとは違う、華やかなりしパリの社交界がショパンにもたらした音楽的霊感だったのでしょう。

当時のショパンは、同年2月にパリ・デビュー公演を成功させた事をきっかけに、リストやメンデルスゾーンなどの、当時パリにいた代表的な音楽家達とも親しく交際するようになっていました。
こういった同世代の若い才能との触れ合いは、デビュー公演を世話してくれたカルクブレンナーのような先輩音楽家とはまた違った刺激をショパンに与えた事でしょう。
そのような事は、ワルシャワ時代はもちろん、先のウィーン時代でもなかった事だからです。
したがって、そのデビュー公演を境に突如途絶えた、もはや文通だけの付き合いになっていたティトゥス・ヴォイチェホフスキとの、表面的で一方通行な友情の終焉も、この事と多いに関係があるのだろうと私は考えています。
ショパンにとって彼の存在は、若くして亡くなった本当の親友ヤン・ビアウォブウォツキの身代わりであり、青春時代を映す鏡のようなものでした。
大人になって自立し始めたショパンは、自分にとって本当に必要で有意義な友情を、このパリの地で育んでいったのです。

また、その一方で、当時のパリには、「ワルシャワ蜂起」の失敗を受けて祖国から亡命して来たポーランド貴族達のサロンもあり、もちろんショパンもそこに招待されていました。
なので、この《第11番》にマズルカ風の感じが見受けられるのも、おそらくその辺の事からきているのではないかと思われます。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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この記事へのコメント

nao
2013年06月21日 23:39
この最初期稿はアレですね、オベレクとマズルですね(あやふやな知識で言ってます)。コチシュのCDで聴きました。
十数年前に、テレビの『なんでも鑑定団』でショパンの手稿譜が出品され、予告で新発見の曲かと大いに期待して観たら、このワルツの自筆譜で正直ガッカリしたことがありました。鑑定結果は本物で、スタジオにピアニストを呼んで演奏もされました。恐らくそれが準初期稿かと思います。

各稿に示されるこのワルツのテンポの漸進が、華麗なる大円舞曲のワルツ・ブリランテ様式に結実する過程を示しているとの論旨は見事です。これは当ワルツの初期バージョンが1832年に書かれたことと、華麗なる大円舞曲の作曲時期は従来の1831年から1835年に見直されつつあるという最近の研究が踏まえられてこその説ですね。
nao
2013年06月21日 23:43
↑失礼...数字を間違えてました。華麗なる大円舞曲の見直された作曲時期は1833年でした。
トモロー
2013年06月22日 01:06
nao様へ。
そうですね。確かに《華麗なる大円舞曲》の作曲年は1831年とも言われていたのですが、当時ショパンがおかれていた環境や状況、それに、遺作を含む初期ワルツ群を作曲年順に並べて見渡してみた時、その曲調や完成度の高さからも、どうしても1831年説には違和感があったものですから。

それはそうと、『なんでも鑑定団』の話は知りませんでした。知ってたら私も見たかったなぁ…もちろんガッカリしたでしょうけどね…。

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