ショパン:マズルカ 第6番 イ短調 作品7-2

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ショパン作曲:マズルカ 第6番 イ短調 作品7-2 by Tomoro




Chopin : Mazurka No.6 in A minor Op.7-2 /Tomoro
● 作曲年:1829~1830年
● 出版年:1832年
● 献呈者:ポール・エミール・ジョーンズ氏


 【ジャンル解説】
マズルカは、ショパンの祖国ポーランドの民族舞踏の一種です。
中部マゾフシェ地方の快活なマズル、
西部クヤヴィ地方のゆったりしたクヤヴィアク、
南部シロンスク地方の急速なオベレク、
の三つに分類され、主に農民によって踊り継がれてきました。

ショパンのマズルカは、それら三つの要素を巧みに融合させながら、独創的で芸術性の高い作品に仕上げられています。


 【作品解説】
《マズルカ 第6番》は、《5つのマズルカ 作品7》として出版された中の第2曲目です。
なお、最新のナショナル・エディション(エキエル版)では、この曲は第7番になっています(作品番号は同じ)。今まで《第9番 ハ長調 作品7-5》だった曲が、《第5番 作品6-5》の位置(作品番号)に変更されているからです。

本稿では、この曲はナショナル・エディションを用いています。
と言うのも、ナショナル・エディションには、ショパンが書き残していた変奏の譜例が記されており、単調なリピートが多い中にあって、これがいい感じに陰影を付けているからです。

この曲は1830年(※当時21歳)に作曲されたとされており、しかもショパンが祖国ポーランドを離れて間もない時期に書かれたと言われています(※ただし、この曲には1829年のワルシャワ時代に書かれたとされている異稿(初期稿?)があるので、厳密には改作という事になりましょうか)。
この時期には、出発の前後にわたって比較的マズルカが多く作曲されているように見受けられ、この頃のショパンが祖国への思いを強く感じていたらしい事がうかがえます。

ショパンがワルシャワを旅立ったのが11月2日で、目的地のウィーンに到着したのは23日でした。
到着して間もなくの頃は、ショパンは期待に胸を膨らませ、ワルシャワの家族に宛てた手紙にもそんな様子が見て取れました。

ところが同年の11月29日、ポーランドではロシアの支配に反抗する「ワルシャワ蜂起」が勃発し、その報せはじきにウィーンにも届きます。
一部の士官候補生達がコンスタンチン大公の暗殺を企て、それが失敗に終わったのです。
この事件によって両国は緊張状態に入り、国内では革命派と保守派が政治的駆け引きを繰り広げます。

伝記の上では、ショパンはあたかも好戦的な革命支持者であったかのように語り継がれていますが、実際のショパンはそうではなく、あくまでも平和主義者で保守中立の立場にいました。
今までずっとショパンが革命派だと考えられてきたのは、すべて、カラソフスキーを発端とする、ポーランドの国粋主義的な作家達による捏造だったのです。
彼らは、ショパンの世界的な人気と名声を利用して、自らの主義主張を世界中に発信しようと考えていたからです(※その詳細についてはこちら)。
そのためにカラソフスキーは、ショパンの手紙から、ショパンがロシア側にいた保守派の人々とも親しく交際していたと言う事実をことごとく削除していました。
カラソフスキーが最初に公表した伝記の中の手紙と、後に、その資料提供者であるティトゥス・ヴォイチェホフスキの遺族からオピエンスキーが借り受けた“ヴォイチェホフスキの手による「写し」の原稿”とを照らし合わせて見た時、その作為的な編集の痕跡が明るみに出たのです。


ショパンは、ウィーンで蜂起の報せを聞いたあと、ワルシャワの家族に宛てた手紙に次のように書いています。

「…(前略)…昨日、バイエル(※ウィーン在住のポーランド人家族)のところでマズルカを踊りました。…(中略)…
僕はマズルカ(複数形)を送っていません。なぜなら、まだそれらの写しを取っていないからです;それらは踊るためのものではありません。…(後略)…」
(※『1830年12月22日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら


ここには“マズルカ”が複数形で書かれていますが、この時期に書かれたとされているマズルカは《第3番 ホ長調 作品6-3》とこの《第6番》の2つあり、おそらくここに書かれている“踊るためのものではないマズルカ”と言うのが《第6番》の事であろうと思われます。

ショパンの政治的信条がどうだったにせよ、ポーランドとロシアの間で戦争になれば、親しい友人達は義勇兵として戦場に赴く事になるし、ワルシャワにいる家族だっていつどんな危険にさらされるか分からない訳ですから、遠いかの地にいるショパンにしてみれば、音楽活動どころではない心境だった事だけは間違いありません。


曲は、主部が短調のゆったりしたクヤヴィアクで、中間部が長調の快活なマズルと言う対比で構成されています。
比較的地味な印象を受けるマズルカですが、テンポや強弱の抑揚が細かく指示されていて、当時のショパンの複雑で微妙な心境がよく表れているかのようです。


ちなみに、ロシア帝国の参事官にして音楽愛好家のヴィルヘルム・フォン・レンツ(Wilhelm von Lenz 1809-1883)が、1842年のパリでショパンに師事するためリストに仲介を求めた時、彼はリストにショパンのマズルカをレッスンしてもらっていて、こんなやり取りをしていたそうです。
「ショパンのマズルカ作品7の変ロ長調とイ短調では、私はリストからピアノ奏法全般についての、たくさんのことを学んだ。彼は私に、この二曲の、小さいながらも意味深い異稿を伝授し、極めて厳格な練習を求めた。とりわけイ短調のマズルカの、長調で書かれた箇所の低音部――見た目にはあれほど簡単な――を徹底的に弾かされた。本当に、リストはどれほど私のために労を尽くしてくれたことだろう!
“これを易しいなんていうのは愚の骨頂です! このスラーをどう弾くかで優れた技巧の持ち主かどうかがわかるのですから。ショパンの前でもこんな風に弾いてごらんなさい。すぐにピンときて、喜んでくれるでしょう。このフランス版の楽譜はひどいものですね。これではショパンらしさが一つも出ていないではありませんか。ほら、この低音部のスラーはこうやって弾かなければならないのです。こんな風に彼に聞かせてごらんなさい。きっとレッスンしてくれますよ。あとはただ自信を持てばよいのです。”」
(※ヴィルヘルム・フォン・レンツ著/中野真帆子訳『パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代』より)

本稿で使用している変奏は、この本の譜例にも出ているものです。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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この記事へのコメント

nao
2013年06月19日 02:24
私もこのマズルカに同じヴァリアントを入れたものをスコアメーカーで打ち込みしたことがありました。同じ箇所にオックスフォード版のヴァリアントも入れました。
ただし私の第一の目的は1829年版の序奏付きの形態を音にして聴くためでした。結果、序奏もトリオへのつなぎ部もやはり余計だと思いました。
その版が「第一稿」で、青澤唯夫著『ショパン その全作品』にもそう書かれているのですが、同じ本の1ページ前に(作曲年代順に解説している)〈ヴィルヘルム・コールベルクのためのマズレク〉というのが紹介されてて、「1824年作曲、1826年出版。1830年から31年にかけてウィーンで改作され、作品7の2として1832年に出版された」とあります。これは前述した「1829年版が第一稿」との記述と矛盾する上に、その後の最終稿Op.7-2の解説内容とも明らかに矛盾していますが、三者の関係について納得のゆく説明は書かれていません。何よりこのマズルカの作曲が1824年まで遡るというのは初耳で、しかもその版が当時に出版されていると明記されているのが驚きです。
また怪しい臭いがする気もしますが、この件についておわかりになることがありましたら、ぜひお教えいただきたく思います。
トモロー
2013年06月20日 16:55
nao様へ。
その話は私も初耳です。
ナショナル・エディション(エキエル版)の解説でも触れられていませんでしたし…。
1826年に出版されたマズルカと言うのは、当ブログでも書きましたが、《マズルカ 第52番(第51番) 変ロ長調 KK IIa-3》と《マズルカ 第53番(第50番) ト長調 KK IIa-2》の2曲が、作品番号も献呈者もない形で、当時ワルシャワで30部だけ出版されています。
それについては、当時ショパンが親友ヤン・ビアウォブウォツキ宛に書いた手紙の中でも、数回にわたって触れられています。
最初にそれらしき記述が見えたのが1826年5月5日付の手紙で、最終的には1827年1月8日付の手紙で、「僕のマズルカを送る、それについては君も知っているだろう、2つ目は後で送るよ、じゃないと一度に幸福が多すぎてしまうからね。――それらは既に出版されている。」と書かれている事から、この2つのマズルカ以外に当時の出版物はないはずです。もしもあれば、ショパンがこの「真の意味で唯一無二の親友」宛の手紙に書かないはずがありませんから。
なので、「1829年版が第一稿」と言うのが正しくて、「1824年作曲、1826年出版」と言うのは、解説文の前後の矛盾から見ても、おそらくこの2つのマズルカやその他の作品と混同した誤りなのではないかなぁ…と思います(間違いや見落としについては、私も他人様の事をとやかく言えません…)。続く…
トモロー
2013年06月20日 17:05
ちなみに、《マズルカ 第6番 イ短調 作品7-2》の第一稿である1829年の序奏付きバージョンについては、私も一応ヘンレ版で確認して知っていたのですが、nao様と全く同意見で、しかも他でも同意見の事が書かれたものを読んだ事があったので、特に目新しい話ではないのかと思ってあえて本稿では触れませんでした。
それに、触れてしまうと、どうしてもお聴かせしなければならないような気がして、音声データもアップしなければならず、だけどそこまでして記事にする興味がわくようなバージョンとも思えなかったものですから…。
でも、これをきっかけに、そのうち手が空いたら追記しようかな…と思い始めています。
いつも興味深い情報をどうも有難うございます。
nao
2013年06月20日 22:18
ありがとうございます。やっぱり…という感じですねw
「コールベルクのためのマズレク」と明記するからには何かしら文献の裏付けがあると思ったのですが、どうも別項で解説されている、コールベルクに献呈された変イ長調OP.7-4の初稿と混同しているらしい。私がさきに引用した部分の「作品7の2として」を「4として」と変えるとかなりつじつまが合います(変イ長調初稿の解説の方にもまたおかしな所があるのですが)。「1826年出版」は次に解説されている2つのマズルカと混同したと見るしかないかな…。
1826年頃は、ショパンが石版印刷(リトグラフ)での少数部出版という手を何度か用いているようですね。他にはポロネーズ変ロ短調とか。《セビリアの理髪師によるポロネーズ》というのは「明日石版印刷に回そう」と手紙に書いていたのに、結局どうなったのか…。
Op.7-2の1829年版の実演は、ショパン作品の異稿の演奏・録音が盛んになった今でもいまだ耳にしたことがありません。あとパデレフスキ版に収められているラ・チ・ダレム変奏曲の第4変奏初期バージョンとか。音楽的な価値はともかく、一度聴いてみたくはありますね。

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