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zoom RSS ショパン:歌曲『願い』作品74-1 遺作(2台ピアノ版)

<<   作成日時 : 2012/01/08 01:38   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:歌曲《願い》 作品74-1 遺作(2台ピアノ版) by Tomoro




Chopin : Song"Życzenie (Maidens Wish)" Op.74-1 /Tomoro

● 作曲年:1829年頃?
● 出版年:1859年
● 献呈者:なし


 【ジャンル解説】
一般にはほとんど知られていませんが、ショパンは生涯にわたって20曲もの歌曲を残しています。
その全てが祖国ポーランドの詩人の作品に曲を付けたもので、制作された理由は様々ですが、出版を前提にしたものは一つもなく、全てがプライベートの目的で書かれました。
したがって、これらは全て作曲者の死後に出版されています。

無伴奏で書かれたもの(※歌曲《マズル・どんな花》)が一つある以外は、いずれもショパン自身によるピアノ伴奏が付いています。
本稿では独自に、そのピアノ伴奏をそのままセカンド・ピアノ(※ステレオ左寄り)とし、メロディ・パートを1オクターブ上げてファースト・ピアノ(※ステレオ右寄り)に置き換え、2台ピアノ版としてお送りいたします。


 【作品解説】
歌曲《願い》(※《乙女の願い》とも呼ばれている)は、作品74として最初にまとめられた16曲(後にもう1曲追加)のうちの第1曲目です。
これらは、ショパンの友人で音楽家でもあったフォンタナによって、一連の遺作集に引き続いて出版されました。
その中でも《願い》は最もポピュラーな作品の一つです。

この詩の作者はステファン・ヴィトフィツキ(Stefan Witwicki 1801−1847)で、ショパンは彼の詩から最も多くを作曲しており、現在10曲が知られています(※ただし、パリ時代にはその他にも数曲書いていたとも言われています)。

この曲の歌詞は以下の通りです。

  『願い』 ステファン・ヴィトフィツキ作(1830年出版)

 もしもあたしがあの空の太陽なら、
 貴方のためにしか輝きたくないわ、
 湖のためでも、森のためでもなく、
 だけどいつまでも永遠に、
 貴方の窓辺を、ただ貴方のためだけに。
 あたしが太陽になれたらいいのに。

 もしもあたしがこの木立の小鳥なら、
 他のどんな場所でも歌わないわ、
 湖のためでも、森のためでもなく、
 だけどいつまでも永遠に、
 貴方の窓辺で、ただ貴方のためだけに、
 どうしてあたしは小鳥になれないの!

※ ちなみにポーランド語と言うのは、たとえ主語が一人称の場合でも、動詞の活用によってそれが男性であるか女性であるかが区別されます(現在形は例外)。つまり、日本語のように男性言葉、女性言葉と言うものがあるのです。また、ショパンはこの曲を、女性が歌う事を前提にソプラノの音域に合わせて書いています。なので私はこの詩を訳すにあたって、あえて主語を「あたし」とし、語尾を女性言葉にしました。

歌曲《願い(乙女の願い)》は1829年頃に作曲されたと推定されています。ただしこれは確実な資料によって確認されたものではなく、あくまでも「推定」です。
なぜそのように推定されたかと言うと、この曲がワルシャワ音楽院院長エルスネルの娘の1830年のアルバムに書き込まれていた事から、少なくともワルシャワ時代に書かれた事が確定的である事と、使われた詩の内容が恋愛をテーマにしている事から、当時ショパンが「理想の人」に出会って恋に落ちたという話と関連付けられた事が考えられます(※『ショパン 知られざる歌曲(集英社新書)』でもそのように解説されています)。

しかしながら私は、ショパンの「理想の人」のエピソードは、手紙の「写し」を取ってそれを伝記作家に資料提供したティトゥス・ヴォイチェホフスキによる加筆改ざんだと考えていますので、この説には疑問を感じています(※それについての詳細は『捏造された初恋物語』で)。
ただし、「理想の人」のエピソードは捏造ですが、当時のショパンが恋をしていた事だけは事実です。
しかしその相手は伝記等で伝えられている人物(ワルシャワ音楽院・声楽科のコンスタンツヤ(コンスタンチア)・グワトコフスカ)ではなく、アレクサンドラ(アレクサンドリーヌ)・ド・モリオール伯爵令嬢だったのです(※それについての詳細はこちらで)。

それに、そもそもショパンが恋愛をテーマにした詩を歌曲に使ったのはこれが初めてではなく、彼が「理想の人」に出会ったとされるより2年も前の1827年に、歌曲《消え失せよ!》の初稿が確認されているからです。しかもそちらの方は、《願い》の主語が女性なのとは違って、主語はあくまでも男性です。
ショパンは、その詩が掲載されているミツキェヴィチの詩集を1826年の秋から冬頃に購入しており、これは、ショパンが本格的に作曲を学ぶためワルシャワ音楽院に通い始めたのとちょうど時を同じくしています。
したがって私の考えでは、ショパンが歌曲を書き始めた根本の動機は、院長のエルスネルから、ショパンが将来的にポーランド語によるポーランドの国民的オペラを書くために、オーケストレーションを学ぶ傍ら、歌曲を書く練習もするよう指導されていたからではないかと考えています。
さらにショパンは、音楽院に通う傍ら、同じ敷地内のワルシャワ大学で国文学と歴史の講義にも出席したりしていて、これもまた、エルスネルの導きによるものだと考えられます。

エルスネルがショパンにポーランド・オペラを書くよう勧めていたと言う話は有名で、ショパンがパリに移住した後にエルスネルがショパン宛に書いた1831年11月27日付の手紙や1834年9月14日付の手紙にもその事は書かれており、しかもその文面からは、エルスネルがそのような事を言うのは昨日今日に始まった事ではない様子がうかがわれます(※しかしショパンはその度に、その可能性について考えていた事は認めながらも、色々と理屈をこねて書けない理由をエルスネルに返事しているのでした)。

その証拠に、ショパンがワルシャワ音楽院に入ってから最初に手掛けたオーケストラを伴う曲は、モーツァルトの有名なオペラ《ドン・ジョヴァンニ》からテーマを取ったものであり(《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》)、次に手掛けた曲も、ポーランド民謡の歌曲や、ポーランド・オペラの作曲家であるクルピンスキのテーマを用いたものです(《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13》)。
そしてその次には完全なオリジナル作品《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」》を手掛けますが、これも言うまでもなくポーランド色の強いものです。

ショパンがこのような段階を経て計画的に作曲を勉強していったのは、一つには、当時のピアニスト兼作曲家がプロ・デビューするために必要とされていたピアノ協奏曲の作曲を最終目標にしていた事と、それともう一つは、その先に、ポーランド・オペラを書く事も念頭に入れられていたからなのではないでしょうか。

そう考えると、ショパンがいよいよ《ピアノ協奏曲》の作曲に着手し始めた1829年から1830年にかけて、それと平行するように歌曲の制作が盛んに行なわれるようになっているのも、単なる偶然とは言えず、事実関係の曖昧な「理想の人」の逸話に絡めるよりも、遥かに現実的かつ必然的な流れだと言えるでしょう。

ただし、私は歌曲《願い》の作曲時期を1829年頃とする説には疑問を感じており、おそらく1830年以降だったはずだと考えています。
それは、私がショパンの初恋話を作り話だと考えているからだけではありません。

と言うのも、この詩が収録されているヴィトフィツキの詩集『牧歌的な詩篇(Piosnki sielskie)』は1830年にワルシャワで初版本が刊行されており、ヴィトフィツキはこれをショパンに贈る際、その序文のページ(内表紙)に、“フレデリック・ショパンへ 彼の才能を称賛する者より 1830年8月5日”と書き添えているからです。この資料は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に写真付きで紹介されています。“君の才能を…”ではなく、“彼の才能を…”と書かれている点に注目してください。これはいかにも他人行儀な表現で、私にはどうしても、この時期の2人が個人的に親密な間柄だったとはちょっと思えない気がするのです。
もちろん、ショパンとヴィトフィツキが知り合ったのは1820年代半ばと考えられているため、出版前にショパンがいくつか詩を見せてもらっていた可能性もあながち否定はできませんが、しかしそれを証明する資料はどこにもありません。

ショパンの書いたヴィトフィツキの歌曲は、そのほとんどがこの詩集から採られています。
そしてそれらの歌曲は、作曲されるとすぐに周りの人々に歌われ、国内の各地にまで広まっているのです。
歌曲《願い》もまた例外ではなく、この歌は巡り巡って1835年に、当時ドレスデンにいた婚約者のマリア・ヴォジンスカの許へも届いています。その事は当時彼女がショパンに宛てた手紙にも書かれています。
ですから、もしもショパンが1829年に初恋に落ち、それによって歌曲《願い》を作曲したと言うのであれば、果たして ショパンがそのような個人的な作品をこのように人々に公表するだろうか?と言う疑問も浮上してくる訳です。ショパンのその恋は、当時の文通相手だったヴォイチェホフスキにしか教えていなかった(※ウィーン時代にはヤン・マトゥシンスキにも)と言う設定になっていますから、内向的なショパンの性格から考えても、そのような作品を自ら人々の間に広めるなどと言う事は考えにくいでしょう。
つまり、この歌はショパン本人の恋愛とは全く関係がないという事です。

そんな事よりも、なぜヴィトフィツキが自分の詩集をショパンに贈ったのか?その事実について考える方が遥かに現実的です。
と言うのも、このヴィトフィツキもまた、ショパンにポーランド・オペラを書く事を強く勧めていた友人の1人だったからです。その事は、彼が1831年7月6日にワルシャワからウィーンのショパンに宛てた手紙に、かなりの熱弁でもって書かれています(※その手紙の全文はこちら)。
ただし、その手紙の文面を見ると、これもやはりいかにも他人行儀で、この頃ですら、この両者が個人的に親密だったとはとても思えず、親交が深まったのはやはりパリ時代以降だというのがよく分かります。これでは尚の事、ヴィトフィツキが出版前の詩をショパンに見せていた可能性はかなり低いと考えるのが自然ではないでしょうか。

つまり、おそらくヴィトフィツキは、ショパンが1830年3月17日と22日のプロ・デビュー公演において、ついに《ヘ短調・協奏曲》という自作曲を世に問い、そしてその華々しい成功を見るに付けて、真に作曲家の才能を認めるようになるに至り、そして将来ショパン作のポーランド・オペラへの足がかりとなるようにと、そう願って自分の詩集を贈ったのではないか?と考えられるのです。
と言うのも、ショパンがワルシャワでプロ・デビューした直後、新聞紙上では、「ショパンはロッシーニを模倣する事なしにロッシーニを聴くべきである」と言うアドバイスが掲載されたりしていたからです。
当時21歳のショパンは、まだまだ他の作曲家から学ぶべき事はたくさんあったでしょう。しかし、なぜそれが「ロッシーニ」からなのでしょうか?

それは、ロッシーニが、当時のオペラ作曲家として随一の人気を誇っていたからです。
そして当時オペラは、娯楽の王様と言っていいほどに人気がありました。

ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini 1792−1868)はイタリアの作曲家ですが、彼は生涯にわたってオペラを42曲、合唱曲を18曲、宗教音楽・合唱作品を21曲も書いています。しかしそれに対して、管弦楽曲や室内楽曲その他の器楽曲は数えるほどしか書いておらず、しかもピアノ曲に至ってはたったの2曲(※1823年?の《ワルツ・変ホ長調》と1843年の《スケルツォ・イ短調》)だけです。もちろんピアノ協奏曲など書いていません。
【訂正とお詫び】 コメント欄にてnao様よりご指摘を頂きました。ロッシーニはショパン没後の晩年にかなりの数のピアノ曲を書いているとの事で、私の勉強不足で間違った事を書いてしまい、本当に申し訳ありませんでした。誤りを正してくださったnao様、どうもありがとうございます。

そんなロッシーニから、当時のショパンが一体何を学ぶ事があったと言うのでしょうか? 要するに、「ロッシーニを模倣する事なしにロッシーニを聴くべき」と言う事は、すなわちオリジナルの「ポーランド・オペラを書け」と言う意味に他ならない訳です。つまりポーランドの総意として、ショパンにはロッシーニに比肩するようなポーランド・オペラの作曲家になるべきだと言う論調があったんですね。
そうなったきっかけは、ショパンが発表した《ヘ短調・協奏曲》の、その「独創性」についての議論が新聞紙上で巻き起こったからでした。
それによって、恩師エルスネルの功績が称賛される一方、逆にショパンの天才はエルスネルに感謝する筋合いのものではないとするような反論まであり、ショパンはこのような議論にうんざりしていた事が『1830年4月10日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』『1830年4月17日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』に書かれています。

そしてヴィトフィツキがショパンに詩集を贈ったのは、そんな事があってから約4ヶ月後の事だったのです。

ヴィトフィツキはリトアニア出身の詩人、エッセイスト、日記作家で、彼の父はクシェミエニツキ高等中学校の教師であり、この学校は、ポーランドの有名な“5月4日憲法”の草稿者の1人タデウシュ・チャツキ(Tadeusz Czacki 1765−1813)が創設し、リトアニア・ポーランド連合国時代におけるポーランド化を推し進める目的で若者を教育していました。ヴィトフィツキはそんな父親の許で教育を受けて育ち、1822年にワルシャワに移住してきました。
3歳年上のアダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz 1798−1855)の影響を受け、ミツキェヴィチが1823年に詩集(※歌曲《消え失せよ!》の原詩が収録されている)を出版した翌1824年に『バラードとロマンス(Ballad i romansów)』でデビューしますが、その題名も含めあまりにも前者を不器用に模倣していたため、全く認められる事はありませんでした。
ヴィトフィツキがまともに評価されるようになったのは、1830年に『牧歌的な詩篇(Piosnki sielskie)』を発表したあたりからです。
ですからヴィトフィツキはこの時期、詩人としての自身の自立とショパンのそれとを重ね合わせ、共に祖国の文化的発展に寄与する夢を託していた事でしょう。

そして一方のショパンはと言うと、彼は《ヘ短調・協奏曲》をもってプロ・デビューを果たした事でちょうど一段落した時期でしたから、そんな時にヴィトヴィツキから詩集を贈られた事もあって、かねてからエルスネルにも言われていたポーランド歌曲の制作に取り組み始めたのではないでしょうか。
実際にショパンは、この1830年から翌1831年にかけて、もっとも精力的に多くの歌曲を制作し、そのうち1830年のワルシャワ時代に書かれた最初の7曲が、全てエルスネルの娘のアルバムに書き込まれていたからです(※その事は、ナショナル・エディションの解説に書かれています)。
そう考えれば、全ての辻褄が合うように思われるのです。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、
「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
突然失礼いたします。
無料の演奏会でショパンの望みを演奏する際、歌詞の意味が必要なときにこのブログにたどり着きました。
勝手に使うのも・・・と思いまして、コメントさせていただきました。
こちらの歌詞を参考にさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
kazu
2013/05/19 18:41
kazu様へ。
わざわざご丁寧にどうも有り難うございます。恐縮です。
私としては嬉しいやら気恥ずかしいやらですが、何よりも、かように誠実なあなた様の演奏会の成功を心から願うばかりです。
そのために少しでもお役に立てるのであれば、それ以上に光栄な事はございません。
トモロー
2013/05/20 05:33
昨日からこちらのブログを知って記事を読み始め、まだ感想を言うことがてきないくらい大変驚いています。いろいろ考えさせていただきます。

さて、本題とは別の事になってしまうのですが、この記事にあるロッシーニのピアノ曲について、この作曲家には晩年に書き溜められた《老いの過ち》と題したいくつかの曲集があり、そこに相当数のピアノ曲が含まれていて、CD8枚分ほどもあります(ウィキペディアの作品一覧の記述は甚だしい書きかけ項目です)。いずれもショパン没後の時期の創作になりますから、当時のショパンにはどのみち関係のない事ではありますが。
論旨と関係の薄い瑣末的な事柄で、こちらの論考の信頼性が損なわれるようなことがあっては、あまりにも勿体ないと思い、失礼ながら敢えて指摘致しました。このコメントは非公開、あるいはしかる後削除していただいて結構です。
nao
2013/06/12 22:28
nao様へ。
大変ご親切に私の間違いを指摘して下さって、感謝に耐えません。
本当に貴方様の仰るとおりです。私はロック畑の人間でクラシックを専門に勉強した訳ではございませんので、正直ショパン以外の作曲家についてはほとんど無知と言ってもいいくらいなのです。これがショパンに関する事なら、あらゆる手段を講じてでも、いつも可能な限り裏を取るのに…。専門馬鹿になっては良くないですよね。
自戒の念も込めて、nao様のコメントはこのまま残させて頂き、本文中にも訂正とお詫びを追記させて頂く事にしたいと思います。
何かと未熟者の私の事ですから、他にもたくさん間違った事を書いているのではないかと思いますが、もしもお気付きの時には、またご指摘頂ければ幸いに存じます。
トモロー
2013/06/13 00:31

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