ショパン:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲(2台ピアノ版)

♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2(2台ピアノ版)
Chopin : Variations on Mozart's Don Giovanni "La ci darem la mano"in B♭ Op.2 (for two pianos)

序奏、テーマ、第1、第2、第3変奏 by Tomoro




Introduction, Thema, Var.I, II, III /Tomoro

第4、第5、最終変奏(アラ・ポラッカ=ポロネーズ風に) by Tomoro




Var.IV, V, Alla Polacca /Tomoro

● 作曲年:1827年
● 出版年:1830年(オーケストラ伴奏版)/2010年(2台ピアノ版)
● 献呈者:ティトゥス・ヴォイチェホフスキ


 【ジャンル解説】
変奏曲(Variations)とは、ある一つの旋律(テーマ)を用いてそれを様々な形にアレンジし、一つの楽曲として展開させながら、まとめ上げていく音楽作品の事です。


 【作品解説】
《「お手をどうぞ」による変奏曲》、あるいは原題をとって《ラ・チ・ダレム変奏曲》などと呼ばれているこの曲の厳密な題名は、《モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》のテーマによるオーケストラ伴奏付きピアノのための変奏曲 変ロ長調 作品2》で、ショパンにとって、オーケストラを伴った作品としては最初のものです。
ナショナル・エディションの解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏付き版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによる2台ピアノ版でお送りいたします(※ただし一箇所だけ、私の耳に馴染んでいる他の版の音を採用しています)。
尚、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに配置してあります。


~前回(「お手をどうぞ」による変奏曲・ピアノ独奏版)からの続き~

この曲が出版されると、それがライプツィヒのあるサロンで話題になっていたからです。
そのサロンの主とは、後にロベルト・シューマン夫人となるクララの父、フリードリヒ・ヴィーク(Friedrich Wieck 1785-1873)でした。

ドイツの音楽家で優れた音楽教師でもあったヴィークは、この無名の若者が書いた斬新で技巧的な野心作を、当時まだ11歳だった娘の才能を世に知らしめるのに打って付けだと考え、ヴィーク家のサロンに集う文化人や音楽家達の前で、あるいは公開演奏会の場で、クララの重要なレパートリーの一つとしてこれを弾かせていたのです。
ヴィークの目論みは見事に当たり、それを聴いた人は皆、クララの演奏とショパンの《変奏曲》を絶賛しました。
そして、ヴィークの弟子としてヴィーク家に移り住んでいた当時20歳のシューマンもまた、この曲に惚れ込んだ一人だったのです。

前回も書いたように、シューマンがこの曲を絶賛した批評文は、初期のショパンを語る上では欠かせないものとなっています。
ただし、そこには常に光と影の両面がつきまとっています。
光は、当時まだ世界的には無名だったショパンの名を広めるのに一役買った事で、しかもそれをしたのが、自らも同じ立場にあったシューマンだった事。
そして影の方は、ショパンがそんなシューマンの批評文を笑い飛ばしていたと言う事。
前者は美談ですが、後者はちょっと…。

ショパンは1831年12月12日付のヴォイチェホフスキ宛の手紙の中で、次のように書いています。
「先日、カッセルにいるあるドイツ人から10ページにわたる批評文が送られて来たが、彼はこの変奏曲に熱狂している。長い序文の後で、彼は1小節ごとに細かく分析し、これは普通の変奏曲ではなく、幻想的な絵画だと言っている。第2変奏ではドン・ジョヴァンニがレポレロと駆け回っているとか、第3変奏ではドン・ジョヴァンニがツェルリーナと抱き合っているのでマゼットが怒り、それを(ピアノの)左手が描写しているとか言うんだ。そしてアダージョの5小節目の変二音でドン・ジョヴァンニがツェルリーナにキスしていると主張している…(略)…このドイツ人の想像力には死ぬほど笑ったよ。彼は、自分の義兄弟に頼んでこれを『音楽評論』に載せようとして、(主催者の)フェティスのところに送りたいと言い張っていたが、才能豊かな良き友人のヒラーが、そんなバカな事はやめて欲しいとその義兄弟を説得して、やっと僕を守ってくれた…(略)…。」
(※ドン・ジョヴァンニはスペインのドン・ファン伝説を基に書かれたオペラの主人公で、レポレロは彼の従者。ツェルリーナはドン・ジョヴァンニに誘惑される農民の娘で、マゼットはその婚約者)

多くの著書で、この「カッセルのドイツ人」はシューマンであると註釈されており、確かにシューマンはこれと似たような内容の批評文を発表しています。
しかし実際は、ショパンの許に送られて来たこの批評文と言うのは、実はシューマンではなくヴィークが書いたものだった事が最近の研究で明らかになっています。
ところがヴィークは、その批評文を、何と寄稿前の弟子の原稿から盗用していたと言う事実も判明しているのです。
それについての詳細は、萩谷由喜子「ロベルト・シューマンとフレデリック・ショパン 同年の天才同士はお互いをどう思っていたか? ショパン→シューマン軽蔑説の誤解を解く!!」『CHOPIN (ショパン) 2006年 07月号』に書かれています。
要するに、ショパンが読んでいたのはヴィークの文章だった訳ですが、その元になっている文学的解釈そのもののオリジナルはシューマンだったと言う訳です。
となると、ショパンが笑い飛ばしていた相手と言うのは、結局、実質的にはやっぱりシューマンだった事になってしまいます。

とにかくショパンにしてみれば、それを書いたのがヴィークであろうとシューマンであろうと(実際ショパンは当時まだどちらの事も知りませんでした)、自分の作品が文学的に解釈される事に対して抵抗を感じていたのであり、その事だけは紛れもない事実です。

音楽とは、言葉では表現し得ない深遠な感情世界を表現し得るもので、つまり、それを言葉で言い表してしまえるようなら、もはやそれは音楽ではないと言うのが、ショパンの音楽に対する根本的かつ絶対的な考え方でした。

ですからショパンは、当時当たり前のように流行していた標題音楽には見向きもせず、それどころか、ロンドンの出版社が彼の作品に勝手に標題のようなものを付けて出版した時、怒り心頭で抗議したほどだったのです。
また、シューマンやリストを始めとする当時の音楽家達の多くが評論活動もしていたのに対して、一人ショパンだけはその手の仕事に手を染めようとはしませんでした。
その是非はともかく、その点でショパンは、ロマン派の時代にあって、明らかに他の音楽家達とは超えがたい一線を引いていたのです。
このような事は、この時代に限らず、あらゆる時代を通じても他に例がないほどの「かたくなさ」だったと言えるでしょう。
たとえば、現在では当たり前のように使われている《子犬のワルツ》《別れのワルツ》《英雄ポロネーズ》《軍隊ポロネーズ》《雨だれのプレリュード》《革命のエチュード》《木枯らしのエチュード》《別れの曲》等々の一種標題的な題名は、いずれも後世の人間による通称、俗称であり、ショパン自身がその手の題名を付けた事はただの一度もありません。
しいて例外と言えるのは、《葬送行進曲》、《幻想曲》、《子守唄》《舟歌》のような類のものぐらいで、しかしこれらはすでに性格的小品の1ジャンルとして確立しているものばかりなので、いわゆる標題音楽とは概念が違います。

そして、ある意味偏狭とも言えるようなこういったショパンの傾向は、彼が19曲もの歌曲を書きながら、そのいずれも、彼がピアノ曲で発揮したような霊感を得られなかった事、あるいは、恩師や親友からどんなに勧められても彼がオペラを書こうとしなかった事とも、密接に結びついています。
なぜならそういった作品は、まず言葉によってイメージを限定された「詩ありき」なので、つまりそれは標題音楽を書くのとほとんど同じ事だったからです。
つまり、ほとんど無の境地から自由な発想で音楽的霊感を得ていたショパンのようなタイプの作曲家には、最初から本来の才能を発揮し得ない事が明白だったと言う訳です。

いずれにせよ、たとえシューマンの評論がショパンの意図するところとは違っていたにせよ、ショパンの作品には、聴く者にそのような事を想像させずにはおかない詩情に溢れている事は確かです。その事を、完全なオリジナル曲ではないこのような初期の変奏曲から感じ取ったシューマンの慧眼は、やはり特筆すべきものだと言えるでしょう。

さて、シューマンはもちろん、純粋にこのショパンの《変奏曲》を称賛してくれていたのですが、その一方で、私は個人的に、このようなシューマンの熱狂を導き出したのには、ある二つの特殊な要因が絡んでいたのではないかと考えています。
1. 一つには、この作品が、モーツァルトの有名なオペラから主題(テーマ)をとっていた事。
2. そしてもう一つは、クララがこの作品を重要なレパートリーの一つとして取り上げていた事。

まず前者について。
オペラ作品と言うものは、言うまでもなく「歌詞ありき」で成り立っています。
ですからシューマンにしてみれば、ショパンの音楽世界をそのオペラの各シーンと結びつけて、容易に文学的解釈を展開しやすかった訳です。
このオペラのアリア《奥様お手をどうぞ》と言う二重唱は、かつてベートーヴェンも《オーボエ2、イングリッシュホルンのための12の変奏曲 WoO28》と言う作品で主題に使っていたほど有名な曲で、同じ主題を用いた同じ変奏曲でありながら、ベートーヴェンのものとショパンのものを聴き比べると、シューマンがショパンのを「劇的で、独特」と評したのもよく分かります。
その事は、シューマンが批評家としてのデビューを果たす上で、さぞかし彼のインスピレーションを刺激してくれた事でしょう。
それとは逆に、シューマンはのちに、ショパンから《バラード 第2番 ヘ長調 作品38》を献呈された際、ショパンがそれを「ミツキェヴィチのある詩から霊感を得た」と語ったにも関わらず、シューマン自身はその詩の内容を知らなかったために、《「お手をどうぞ」による変奏曲》でやったような具体的な文学的解釈を展開する事ができませんでした。

次は後者についてですが、もしもこれをクララが弾いていたのでなかったとしたら、シューマンはこの曲に対してここまで熱くはならなかったのではないだろうか?と言う事です。
と言うのも、シューマンは後に、クララ宛の手紙に次のような事を書いているからです。

「僕は明日、11時が鳴るとともにショパンの変奏曲の中のアダージョを弾きながら強く君を思い君に心を集中させるよ。だから君も、僕たちの霊魂が出会えるように、同じ時間に同じアダージョを弾きながら僕を思ってほしい(以下略)。
※萩谷由喜子「ロベルト・シューマンとフレデリック・ショパン 同年の天才同士はお互いをどう思っていたか? ショパン→シューマン軽蔑説の誤解を解く!!」『CHOPIN (ショパン) 2006年 07月号』より」

ここにある「アダージョ」と言うのは第5変奏(変ロ短調)の事で、これについてシューマンは批評文の中で、「ドン・ジョヴァンニの品行が、道徳的にいってどんなものかを暗示するのに、これ以上しっくりする調子もない」(※『音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)』より)としており、曲中もっとも独創的な部分です。
当時のシューマンとクララは、ヴィークには内緒で交際していました。ですから、状況は全く違えども、「許されない恋」と言う意味においては、《お手をどうぞ》の歌詞は二人にとって非常に共感できるものだったのではないでしょうか。
この手紙の日付は1833年7月13日ですが、シューマンの批評文がライプツィヒの『一般音楽時報』に載ったのが1831年12月7日ですから、これはそれから約1年半後の事になります。
つまりシューマンにしてみれば、この《変奏曲》とその作曲者を称賛する事は、間接的に、当時それをレパートリーとしていたクララをも後押しする事につながっていたのです。

少なくとも、一方のヴィークが、同様の批評文を弟子とは別に世に発表しようと考えた裏には、間違いなく、娘のためのそのような計算が働いていたからに他ならないはずです。
そうしてこの曲が話題になればなるほど、それを見事に弾きこなすクララの才能にも注目が集まるからです。
だからこそヴィークは、ショパン側からやめて欲しいと言われようが、シューマンから盗用を批判されようが一切お構いなしに、結局1832年に、マインツの音楽雑誌でそれを公表してしまえたのだろうと、私はそのように考えています。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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