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みんなの「練習曲」ブログ


ショパン:練習曲 第8番 ヘ長調 作品10-8

2013/06/27 14:01
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第8番 ヘ長調 作品10-8 by Tomoro



Chopin : Étude No.8 in F major Op.10-8 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第8番 ハ長調》は、《12の練習曲 作品10》の第8曲目です。
右手のパッセージ(経過句、走句)のための練習曲と言われており、指の独立性や手首の柔軟性を要求されます。

この曲は、特に何かにたとえられたりする俗称のようなものはありませんが、《作品10》の中では、とてもユーモラスな印象を受ける作品で、私などは個人的に、この曲を聴くと何故か“象の行進”をイメージしてしまいます。



前回に引き続き、《12の練習曲 作品10》を献呈されたリストについて、ショパンとの比較を交えながら書いてみたいと思います。
第3回目の今日は、彼らの子供時代の教育事情についてです。


リストの祖父ゲオルク(Georg Liszt 1755−1844)は学校の教師でしたから、父アダム(Ádám Liszt 1776−1827)にはそれなりの教育を施しており、アダムは高等教育まで受けさせてもらっています。
高校卒業後、アダムはスロヴァキアのフランシスコ教会で修道士となるべく修行を積んでいたのですが、しかしそれに関しては、本人の移り気な性格のために断念し、還俗したそうです。
その後1797年からプレスブルク大学の学生として哲学を専攻しますが、これについては経済的事情のために一年で断念せざるを得なくなります。
こうして見ると、祖父の影響もあるのでしょうが、若い頃のアダムはそれなりに教育に関心を持っていたようではあるのですが、しかしながら、いざ自分の息子に対してとなると、もちろん経済的な事情も大きいのですが、それほど教育熱心ではなかったようですね。

リストの初等教育は、村の学校教師ヨハン・ローラーによって行なわれました。
ローラーがドボルヤーン(現在のオーストリア領ライディング)の教師として任命されて来た時、彼はまだ22歳と若く、ドイツ語を話し、小さな学校には67人の子供たちがいて、男の子が52人、女の子が15人、少年リストはその中で読み書きを習いました。
なので、リストの両親がそうだったように、ハンガリー西部の何千もの人達と同様、リストもドイツ語を話しました。しかし、そもそもドボルヤーン自体がドイツ語を話す村だったのです。
しかも彼は12歳でパリに渡りますから、それ以降はもっぱらフランス語を使うようになります。
そのためリストは、マジャール語(ハンガリー語)を話す事が出来ないまま育ち、そしてそのまま生涯を通す事になるのでした。

後にリストが語ったところによると、少年時代の彼は、貧しい初等教育に留まり、歴史や地理、あるいは自然科学等の一般教養を学ぶ事など考えられず、その事をとても残念に思っていたそうです。
若くして音楽家として有名になり、上流社会との交わりが増えるにつれ、彼はそんな自分の無教養さに非常なコンプレックスを抱くようになります。そしてそれを補おうとして、膨大な読書量をこなすようになるのですが、このように、リストには、向上心が強く、努力家の一面もありました。


一方のショパンはと言うと、彼の父ニコラは、元々はフランス・ロレーヌ地方の片田舎で車大工と葡萄園を兼業する第三身分の出身でしたが、フランス革命を前にした国の混乱から逃れるようにワルシャワへ渡り、叩き上げのフランス語教師として高等学校の教授にまで登り詰めました。
その傍ら、自宅を学生用の寄宿学校にして、地方の裕福な貴族や士族の子息達を預かる事もしていましたから、もちろん自分の子供たちに対しても教育熱心でした。
少年ショパンは病気がちだった事もあってか学校には通っていませんでしたが、そんな事は全く問題にならず、学校同然だった家庭環境のお陰で、同世代の友人達に混じって一般教養なども身につけられたのです。
ショパンは、父はフランス人で母はポーランド人でしたから、基本的にはポーランド語を母国語として話し、フランス語も第二母国語と言って差し支えない程度に読み書きまで出来ましたし、その上、ショパン家の子供たちは皆、更なる教育によってドイツ語にも精通していたのです。
しかもショパンは、高等学校に編入した3年間は常に成績優秀者として賞をもらっていた程でしたから、その意味でも、リストが抱いていたようなコンプレックスとは無縁だったのでした。


続く…

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ショパン:練習曲 第7番 ハ長調 作品10-7

2013/06/24 02:13
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第7番 ハ長調 作品10-7 by Tomoro



Chopin : Étude No.7 in C major Op.10-7 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第7番 ハ長調》は、《12の練習曲 作品10》の第7曲目です。
右手が絶えず16分音符の重音を刻み、それをレガート(音を滑らかにつなげて演奏する事)で弾くための練習曲です。
さらに、上声部と低音部が対位法的に旋律を奏でており、そのバランスも考慮しなければなりませんから、その中からメロディーを浮き立たせるのは容易ではありません。

このエチュードは、“雪上の狩り”、あるいは“空飛ぶ妖精の飛行”等に例えられる事もあるそうです。


今回は、この《12の練習曲 作品10》を献呈されたリストについて、ショパンとの比較を交えながら書いてみるシリーズの第2回目です。
今回は彼の幼児期について書いてみたいと思います。


リストは、父アダムと母アンナの間に一人っ子として生まれました。
意外な事に、赤ん坊の頃のリストは、体が弱くて病気がちだったそうです。
この点はショパンと同じと言うか、むしろショパンよりひどかったようで、アダムによると、神経症による痛みと発熱に襲われ、一度ならず命の危険にさらされたそうです。
と言うのも、リストが生まれたドボルヤーン(現在のオーストリア領ライディング)と言う寒村は、ハンガリーの西端に位置しているのですが、更に行くとハンガリーとオーストリアをまたがるノイジードル湖(ノイジードラー湖)と言う大きな湖があり、そこは低地の湿地帯で、そこが常に病気の感染源となっていたからでした。
なので、この地域は幼児の死亡率が高かったとの事です。
それでアダムは、赤ん坊に予防接種を受けさせるなどして、当時としては先進的な医療処置を施していたのだそうです。

リストが3歳の誕生日を迎えようとしていた時、こんな事がありました。
ある時リストは、危機的な病状に陥ってしまいます。
その症状は強梗(きょうこう)症(ヒステリーなどに伴う筋肉の硬直・無感覚状態)に似ていて、両親はもう助からないと思ったのか、子供が死んだ時のためにと、村の大工に棺桶を作るよう注文しました。
ところが、そうしたらその後間もなく回復したのだそうです。
この重病の間、リストはずっと叔母のテレーズ(母アンナの妹)に看病されていて、後にリスト本人が語ったところによると、彼女が彼を死の淵から救い出したとの事です。

ショパンが小さい頃から病弱だったと言うのは有名ですが、それでも幼児期や幼少期に死の境をさまよったなんてエピソードは聞きませんからね。
ショパンがそんな目に遭うのはむしろ成人してからで、ある時などは、風邪でずっと寝込んでいたら死亡説の噂が立ってしまったなんて事がありました。

我々が知っているリストは、ショパンの倍近く長生きしているし、その力強く華やかな演奏スタイルから、まるで病気とは無縁のようなイメージを抱きがちですが、彼は生涯を通じて、よく発熱に襲われたりして元気がなくなったりする事があったのだそうです。


続く…

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ショパン:練習曲 第6番 変ホ短調 作品10-6

2013/05/21 15:42
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第6番 変ホ短調 作品10-6 by Tomoro



Chopin : Étude No.6 in E♭ minor Op.10-6 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第6番 変ホ短調》は、《12の練習曲 作品10》の第6曲目です。
ノクターンを思わせるようなメランコリックな曲ですが、主旋律を奏でる高音部と、絶えず8分音符が動く内声部と、低音部の3部からなる、多声部のための練習曲です。


さて、今回からはシリーズで、この《12の練習曲 作品10》を献呈されたリストについて、ショパンとの比較を交えながら書いてみたいと思います。


リストの国籍については色々と言われてはいますが、本人ははっきり自分をハンガリー人だと言っています。
当時のハンガリーはハプスブルグ家の支配下にあり、かつてはオスマントルコなどに分割支配されていた事もありますから、ショパンの祖国ポーランドがロシア、オーストリア、プロイセンに分割支配されていたのと、歴史的に似通ったところがあります。
音楽的な意味でも、彼ら以前にはまだ両国からは世界的な音楽家が輩出されていなかったので、共に発展途上国だったという点でも共通しています。

リストは、ハンガリーの西端に位置するドボルヤーン(現在のオーストリア領ライディング)と言う寒村に、一人っ子として生まれ育ちました。
平民出身で片田舎に生まれたと言う点ではショパンと同じですが、ショパンが姉一人妹二人の四人兄弟(姉弟?兄妹?)だったのとは対照的ですね。
ドボルヤーンは当時、ハンガリーの大貴族エステルハージ公爵の所領で、エステルハージ家は、ハイドンのパトロンとしても知られる非常に音楽に造詣の深い家系でした。

リストの曾祖父セバスチャンはドイツ系移民の小作人でしたが、祖父ゲオルクは学校の教師などをしながらピアノやヴァイオリンなども演奏していたそうです。
父アダムはエステルハージ家に仕える役人で、かつてハイドンが楽長を勤めていた宮廷楽団でチェロ奏者を勤めていたと云われており、そうするとアダムは、ハイドンの後任であるフンメル(モーツァルトの弟子)の下で演奏していた事になるそうです。アダムはアマチュアながらも、優れた腕前を持っていたと云われています。
ショパン家も、父ニコラがフランスからの移民で、祖父の代にはぶどう園も営んでいたので、その辺の家系的事情は似通っています。ただし、ニコラは単なるフランス語の教師で、楽器演奏には精通していませんでしたから(※フルートやヴァイオリンが巧かったというのは後世の作り話です。その詳細についてはこちらで)、その意味では、リストの方は音楽家になるべくしてなったような、そんな環境に生まれたと言ってもいいでしょう。

ちなみにリストが生まれた時、リスト家はまだ、その綴りを「List」としていた事が彼の出生証書から分かっています。
これは、彼らの先祖がドイツ人だったからなのですが、しかしそのままだと「リシュト」と発音されてしまう事から、ハンガリー的に「Liszt」と綴るようにしたのだそうです。
この点はショパン家とは逆ですね。ショパンの場合、「Chopin」と綴ってそれを「ショパン」と発音するのは、それが典型的なフランス名であるからなのですが、ポーランドでは、そのままだと「ショペン」(あるいは「ホペン」)と発音される事から、しばしばポーランド的に「Szopen」と綴られたりする事があるのです。しかし、当の本人達がその綴りを用いようとした事はただの一度もありません。

リストの両親は共にドイツ語を話し、当時ハプスブルグ家がハンガリーのドイツ化を推し進めていた事から、学校教育もドイツ語で行なわれていました。そのためリストは、ドイツ語しか話せないままハンガリー時代の少年期を過ごしたのです。
しかしながら、当時のハンガリーには移民が多く、純粋なハンガリー人は全人口の半分以下でしかありませんでしたから、ハンガリー人のリストがハンガリー語を話せなかったとしても、それは別に珍しい事でも何でもありませんでした。そのような例は、当時においては何処の国でもよくある事なのです。
したがって、それをもってリストがハンガリー人である事に疑問を呈するのは、その国の歴史的事情についての理解が不足しているからなのかもしれません。


続く…

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ショパン:練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5「黒鍵」

2013/05/15 13:03
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5 「黒鍵」 by Tomoro



Chopin : Étude No.5 in G♭ major Op.10-5 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第5番 変ト長調》は、《12の練習曲 作品10》の第5曲目です。
ピアノの黒い鍵盤ばかりを使うため、一般に「黒鍵のエチュード」と呼ばれ親しまれています。


ショパンはこの曲について、友人に宛てた手紙で次のようにコメントしたとされているのですが…
「…(略)…ヴィーク(※クララ。後のシューマン夫人)は僕のエチュードを巧く弾いたかい? どうして彼女は他にもっと良いものを選ばなかったのだろう――それが黒鍵のためのものだと知らない人には、少しも面白くないだろうに! 黙って座っていた方がまだ良かった。…(略)…」
(※1839年4月25日付『マルセイユのショパンからパリのユリアン・フォンタナ宛の手紙』より)

…これ、本当にショパンがこんな事を書いていたのでしょうか? 私にはどうしても信じられません。

何故ならショパンと言う人は、自分の作品を文学的に解釈されるのを嫌い、だからこそ、自らも自分の作品に対して解説めいた事をほとんど言わないからです。
稀に言う事があったとしても、決して具体的な事は言わず、あくまでも抽象的で間接的な事しか言いません。
したがって、ショパンの手紙にあのような事が書かれている場合、まず「贋作の疑いがある」と考えてみるべきではないかと思われるのです。

それにこのエチュードは、この時すでに出版されてから6年も経っていた訳で、それが黒鍵のために書かれている事ぐらい、この曲を知っている人なら誰でも常識だったはずだからです。
それをわざわざ、同じ音楽家でもあるフォンタナ相手に今更言うでしょうか?

また、確かにこの曲は黒鍵のために書かれてはいますが、しかしそれが全てではない事も事実で、そんな事ぐらいショパン本人が分かっていないはずがありません。
実は、この曲を弾いた事がある人、あるいは楽譜を見た事のある人なら知っていますが、この曲は完全に黒鍵だけで書かれている訳ではありません。白鍵も少し混じっています。
ショパンが本当に黒鍵のためだけに練習曲を書こうと思ったのなら、最後まで白鍵を一つも使う事なしに書き上げる事だって出来たはずです。それなのに何故そうしなかったのでしょうか? それは彼が、自身に湧き上がる音楽的霊感を無視する事が出来なかったからです。つまり、そこに白鍵を混ぜればもっと良い曲になる事が分かっている以上、ショパンはそうする事に何の躊躇もないと言う事なんですね。
もしもこれが、作曲家として才能のない人間だったら、本当に黒鍵だけで曲を書き上げて、この手紙に書かれている通り「少しも面白くない」曲になっていた事でしょう。
要するに、ショパンは、この曲が単に「黒鍵のためだけに書かれたつまらない練習曲」ではない事を、自分でちゃんと分かっていると言う事なんです。
したがって私の考えでは、おそらくこの手紙は贋作で、ショパンが書いたのではない可能性が高いと思います。こんな事を書くのは、音楽の事をよく分かっていない人間、もっと言えば、ショパンの音楽の本質をよく分かっていない人間でしかあり得ないのではないでしょうか。

この手紙には、他にも不自然な点がたくさんあります。
まず、この宛先人であるフォンタナは、ワルシャワ時代からの友人で彼もまた音楽家でしたが、当時はショパンのマネージャーのような事をしていて、ショパンの仕事の手伝いや身の回りの世話などを献身的にしてくれていました。なので、ショパンが彼宛に手紙を書く時、必ずそういった用件を伝えるために書いていたのです。ところが先の手紙には、肝心のその用件が何も書かれていないんですね。
この二人は、普段は同じパリに住んでいますから、ショパンがパリにいる時は直接口頭でやり取りをするので当然手紙は書きません。ショパンがパリを離れている時にのみ、仕事やその他の用件で手紙をやり取りしなければならない事になるのです。そんな訳ですから、かつて離れ離れに暮らしていた「単なる友人」のティトゥス・ヴォイチェホフスキに手紙を書いていたのとは訳が違い、ショパンが何の用件もなしに、ただ世間話をするためだけのためにフォンタナに手紙を書くなんて事はまず考えられない事なのです。

しかも、手紙の内容が、この前後に書かれたフォンタナ宛やグジマワ宛の手紙、あるいはジョルジュ・サンドが友人宛に書いた手紙と、あまりにも重複しすぎています。元来が筆無精のショパンが、同じような話題をただ繰り返すためだけに手紙を書くなんて事は非常に考えにくい事です。
つまり贋作者は、それらをネタ元にして新たな手紙を捏造している可能性が高く、これは、ショパンの贋作書簡には必ず見られる特徴でもあります。
たとえば、上記のクララ・ヴィークについても、ショパンはこの一ヶ月ほど前に書いたフォンタナ宛の手紙にこう書いているのです…
「…(略)…もしも君がクララ・ヴィークを気に入ったのなら、君は正しいよ;彼女は誰よりも上手に弾く。もしも彼女に会ったら、僕から宜しくと伝えておいてくれたまえ、あと彼女の父親にも。…(略)…」
(※1839年3月『マルセイユのショパンからパリのユリアン・フォンタナ宛の手紙』より)

この手紙には日付がありませんが、仕事上の伝達事項が書かれている事からも、ショパンがフォンタナ宛に書いた手紙として疑わしい点は特に見られません。

この当時、クララはパリを訪問中でした。
《「お手をどうぞ」による変奏曲》の記事でも書いた通り、クララは11歳だった1830年に、ショパンのこの変奏曲をいち早くレパートリーに取り入れて話題になっていました。
彼女の父フリードリヒ・ヴィークは、そんな娘を後押しする意味でも、弟子のシューマンが書いた《「お手をどうぞ」による変奏曲》の批評文を発表前にちゃっかり盗用して雑誌に掲載しようと働きかけ、その過程で、パリに着いて間もなくのショパンにもそれを送ったりしていました。
ショパンは、ヴィークの批評文自体は笑い飛ばしていましたが、その後シューマンとの交流を通してヴィーク父娘ともお近付きになり、クララの才能を高く評価して“僕の作品を弾ける唯一のドイツ人”とまで言うようになっていたのです。
だからこそ、フォンタナにも”彼女は誰よりも上手に弾く”と書いていたのに、それがどうして、ただ単に《黒鍵のエチュード》を弾いたと言うだけの理由で、いきなりショパンからあんな言われ方をしなければならないのでしょうか? クララが《黒鍵のエチュード》を巧く弾けるかどうかなんて、そんな事はショパンなら聞かずとも分かっているはずなんです。
なので、私にはとてもショパンのコメントとは思えないんですね。

ショパンの手紙には非常に贋作が多いのですが、それらを捏造するのは、例外なく、国粋主義的なポーランド人です(カラソフスキー然り、タルノフスキー然り、パウリーナ・チェルニツカ然り…)。
なので、その内容は殊更愛国心が強調されたものになっていて、それ故、リストやシューマン、ジョルジュ・サンド等の、同時代の外国人の芸術家達を貶めるような事も多く書かれています。
先の手紙にも如実にその傾向が現れていて、ここでは初期のショパン作品を広めるのに一役買ってくれたクララ・シューマンが餌食にされてしまってます。

とにかくです、この手紙が本物であれ偽物であれ、こういう偏狭と言うか狭量な意見はあまり聞きたくないものですね。かえって名曲のイメージを損なう事にしかならないと思いますから。
それと、ショパンやクララの名誉のためにも…。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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ショパン:練習曲 第4番 嬰ハ短調 作品10-4

2013/04/01 08:16
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第4番 嬰ハ短調 作品10-4 by Tomoro



Chopin : Étude No.4 in C# minor Op.10-4 /Tomoro

● 作曲年:1832年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第4番 嬰ハ短調》は、《12の練習曲 作品10》の第4曲目です。

前回紹介した《第3番 ホ長調》と同じ時期に手がけられており(※当時23歳)、最新のナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、《第4番》の未完成版のラフの写しには“パリ 1832年8月6日”の日付が書き込まれているとの事です。
《第3番》の未完成版のラフの写しには“パリ(18)32年8月25日”の日付が書き込まれていましたから、《第4番》の方が少し先に作曲されたようです。

ショパンはその年の2月に、パリにおけるデビュー公演を行っています。
前年の9月半ば過ぎ頃にパリへやって来たショパンは、間もなく、少年時代から憧れの存在でもあった当代随一のピアニスト兼作曲家カルクブレンナー(Friedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner 1785−1849)と知り合いになり、彼から弟子にならないかと誘われる程気に入られました。
しかしながら、父ニコラや師エルスネルの忠告もあって、ショパンはその申し出自体は断ります。それでもカルクブレンナーは、ショパンのプレイエル・ホールでの演奏会を企画し、その全てをお膳立てしてくれたのでした(※カルクブレンナーは、ピアノ製造者プレイエルと共同経営者でもあったのです)。

その演奏会は当初、前年の12月に予定されていたのですが、諸々の事情で延期され、ようやく年明けの2月26日に執り行われるに至りました。これは、ショパンがパリに渡ってから約5ヵ月半後の事になります。
演奏会は成功を収めるのですが(※その詳細については《ホ短調・協奏曲トモロー・エディション》で)、もう一つ興味深いのは、この演奏会には、後に《12の練習曲 作品10》を献呈する事になるリストも観客として来ていた事で、そしてこれが、この時代を代表する二人のピアニストの初邂逅だったと言われています。

リストはショパンの演奏と作品に感銘を受け、以来この二人は友情を育むようになり、また、良きライバルとしてお互いを刺激し合っていく事にもなります。
その一方で、逆にこの演奏会を境に、ショパンとワルシャワ時代からの親友であるティトゥス・ヴォイチェホフスキとの文通がぴたりと途絶えている点も私には興味深い事です。ショパンは、演奏会の前にはその由を手紙で彼に知らせていたのに、その演奏会の結果がどうだったかとか、それ以降の事について彼宛に一切手紙を書いていないからです(※ちなみに、最晩年に突如現れる彼宛の2通の手紙は、伝記作家のカラソフスキーによる完全な贋作です。書かれている内容とその解説が、後に判明した事実と一致していません)。
《練習曲 第1番》でも説明したように、私は個人的に、ショパンが練習曲を書き始めたきっかけは、ウィーンで知り合ったチェルニーを通じてリストに刺激されたからではないかと考えています。
そのリストとついにパリで知り合ったショパンが、それから約半年後に再び着手し始めたのが、この《第4番》と《第3番》になる訳です。


《第3番》の自筆譜には、曲の終わりに“attacca il presto”の指示があり、休まずに次の《第4番》を続けて弾くようになっていました。しかしその指示は、曲集として出版された際に削除されています。
おそらく、最初“ヴィヴァーチェ(快活に)”だった《第3番》のテンポを“レント(遅く)”に変更したので、その余韻を大切にしたいと考え直したのかもしれません。
あるいは、ひょっとするとショパンは、この2曲を書いた時点で、曲集そのものを全部続けて弾くようにするアイディアを思い付いた可能性も考えられなくはありません。
いずれにせよ、最終的にその考えをやめたと言う事は、個々の作品を独立させる事によって、各々が単なる練習曲ではなく、性格的小品としての芸術性をも兼ね備えているのだと言う事を強調したかったのかもしれません。

「ピアノの詩人」と謳われるショパンの作品の全てに共通している事は、どんなに高度なテクニックであっても、それが必要とされる根拠は常に音楽的な理由であって、決してピアニストがテクニックをひけらかすためではない、と言う事なんですね。
それはたとえ練習曲であっても例外ではなく、むしろ練習曲だからこそその点が特に強調されなければならないと、ショパンはそのように考えていたのだろうと私は思います。
それこそが音楽にとって一番大切な事なのですから。
だからこそショパンの曲は、プロ、アマを問わず、どんなに難しくても弾いてみたいと思われるんですね。


そんな中にあって、この《第4番》はショパンのエチュードの中でも最大の難曲と言われています。
この曲は、様々な要素を相反する対象で捉える事によって、一つ一つのテクニックの効果を意識させるように作られています。
つまり、フォルテ(強く)とピアノ(弱く)だったり、スタッカート(音を短く切って)とレガート(音をなめらかにつないで)だったり、狭いポジションと広いポジションだったり、同じフレーズを左右の手で交互に入れ替えたり…と言った事です。
その結果、この曲は非常に演奏効果の高いものとなっており、正に「クール!(カッコイイ!)」と言う言葉がぴったりな作品となっています。

でも、私がこの曲のそんな魅力に初めて気付かされたのは、何を隠そうTVドラマの『のだめカンタービレ』でこれを聴かされた(観せられた)時だったのでした(※私は普段TVを全く観ないので、姉が買ったDVDを借りて観たのですけどね…)。
それまで私は、この曲に対して特に「好き」とも「嫌い」とも、そういった感情を全く抱いていなかったのです。
あのドラマの主人公・野田恵は、それまで、最高難易度を誇るこのエチュードとは全く無縁の世界を生きる音大生として描かれてきていて、そんなところでいきなりこの曲を鬼気迫る勢いで完璧以上に弾きこなしてのけたのですから、劇中の江藤先生同様、そのギャップから受けた衝撃だけでもかなりなものだった訳です。このエチュードは、彼女の幼少期のトラウマと関係する形で物語の重要な鍵となる楽曲として使われていましたが、あのドラマでは(もちろん原作が素晴らしいからなのですが)、様々なクラシックの曲が非常に深い解釈のもとに物語世界とうまくリンクしていて、それが相乗効果となって音楽と物語が互いに引き立て合っていましたね。その中でもこの《練習曲 第4番》のお披露目シーンは、ショパンが絡んでいた事もあって個人的に一番好きなシーンでした。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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ショパン:練習曲 第3番 ホ長調 作品10-3「別れの曲」

2013/03/25 13:49
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第3番 ホ長調 作品10-3「別れの曲」 by Tomoro



Chopin : Étude No.3 in E major Op.10-3 /Tomoro

● 作曲年:1832年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第3番 ホ長調》は、《12の練習曲 作品10》の第3曲目です。
ノクターンを思わせるような美しい旋律で、情緒表現のための練習曲とされています。
前回紹介したベートーヴェンの《悲愴ソナタ 第2楽章》と同様に、右手の中にメロディ・パートと伴奏パートが同時に含まれており、それだけに旋律を浮き出させて歌わせる事が難しくなっています。

ところがショパンは最初、この曲のテンポを「ヴィヴァーチェ(活発に)」、あるいは「ヴィヴァーチェ・マ・ノン・トロッポ(活発に、しかしあまりはなはだしくなく)」と指定していた事が、残されている初期の自筆譜から分かっています。
それを最終的に「レント・マ・ノン・トロッポ(遅く、しかしあまりはなはだしくなく)」に変更していたのです。
つまり、最初の構想時より3倍近くもテンポを落とした事になりますから、もしも変更していなかったら、練習曲としての難易度も格段に上がっていた事になりましょうか。何よりも曲調を全く別のものに変えてしまった訳ですから、これはかなり思い切った改訂と言えるものです。
一説によると、最終的に曲集の配列とバランスを考慮した際にこの変更を思い付いたのだろうとも言われていますが、その辺は定かではありません。


ショパンは、結局ウィーンでは特に表立った音楽的成果を得られないまま、ミュンヘンを経由して1831年9月の半ば過ぎ頃に、新天地であるパリにたどり着きます(※当時22歳)。そしてこれはその翌年に作曲されました。
完成版ではないラフの写しには、“パリ(18)32年8月25日”の日付が書き込まれています。


この曲は、日本では「別れの曲」という題名で知られていますが、これはショパンの伝記映画の邦題からきているもので、もちろんショパン自身が付けたものではありません。
その映画は1934年のドイツ映画『Abschiedwalzer』(※直訳すると「別れのワルツ」)で、翌1935年に役者だけをフランス人に入れ替えたフランス版『La chanson de l'adieu』(※直訳すると「別れの歌」)が作られ、そのフランス版の方が日本で公開された際に付けられた邦題が「別れの曲」だったのです。
この映画は国内で大ヒットを記録し、その中でこのエチュードがメインテーマとして使われていた事から、日本ではこの曲が「別れの曲」として広く親しまれるようになりました。
なので、この俗称は日本特有の呼び方になります。
海外では「Tristesse(悲しみ)」、あるいは「Sadness(悲しみ)」等の副題で呼ばれる事が多いようです。

また、この曲は「おお祖国」と呼ばれる事もあるそうで、それに関しては、ドイツの音楽学者で伝記作家のニークスがショパンの関係者に取材した中で次のようなエピソードを紹介しています。
「“わたしの一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません”と、ショパンはグートマンに語った:ある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を結んで頭の上にあげ、“ああ、わが祖国よ!”と叫んだのである。」
(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著/米谷治郎・中島弘二訳『弟子から見たショパン』(音楽之友社)より)

ちなみに映画「別れの曲」の公式サイトでは、これをショパンがリストに語ったものと説明していますが、グートマンの誤りです。
上記のエピソードから、このエチュードを「おお祖国」と呼ぶようにもなったそうなのですが、これはおそらくグートマンの作り話でしょう。
何故なら、先述したようにショパンは最初この曲を「ヴィヴァーチェ」のテンポで着想していたからです。そんな速さで書かれたこの曲が、どうして望郷の念から生み落とされたと想像できるでしょうか? なので、この曲を祖国への思いと結び付けて考えるのは、あくまでも最終的な出版譜からくる印象であり、つまりは鑑賞者の後付けの解釈でしかあり得ないのではないだろうか?と言うのが私の考えです。
そもそもショパンと言う人は、音楽を文学的に解釈するのをとても嫌っていたので、自作品に対してこの手の話をしない人なのです。
そういう意味でも、ショパンはロマン派の時代にあって異端な存在でした。

ウィルヘルム・アドルフ・グートマン(Wilhelm Adolf Gutmann 1819−1882)はドイツのピアニスト兼作曲家で、ショパンに師事するために1834年にパリにやって来ました。これは、《12の練習曲 作品10》が出版された翌年になります。
彼はすぐにショパンのお気に入りの弟子となるのですが、しかしそれは音楽的な才能を見込まれての事ではありませんでした。
グートマンは、恵まれた体格に物を言わせて鍵盤を叩きつけるように弾くタイプで、それはショパンが最も嫌う演奏法でしたし、作曲家としても彼はショパン作品の模倣ばかりしていたそうです(※「ショパンの弟子たち- テレフセン/ミクリ/フィルチ/グートマン」というCDで3曲ほど聴く事ができますが、確かに似ています)。
そんなグートマンの何を気に入ったのかは謎ですが(←謎と言うより、あまり考えたくないと言うか…)、とにかく公私にわたって親密になり、ショパンから《スケルツォ 第3番》を献呈されるほどになります。これはショパンの男性の弟子としては極めて稀な事です。

ただ、どうも彼には虚言癖があったらしくて、とにかくこの人物についてはあまり良い噂を聞きません。
「シュトゥットガルトの手記」を捏造したタルノフスキーの著書では、ショパンは演奏会用にスーツを仕立てたものの気に入らず、仕方ないので自分より2倍近くも大男のグートマンのを借りて出演したとか、オシャレにうるさいショパンがそんな真似をするはずがないと言うような作り話が書かれたりしていますし(※その詳細については「このアルバム(日記帳)は何処から出て来たのか?」で)、また、グートマンはショパンの臨終に立ち会ったと自ら証言していますが、ショパンを実際に看取ったショパンの姪ルドヴィカ・チェホムスカ(姉ルドヴィカの娘)が後にそれを否定していたりしています。

私が「おお祖国」の逸話に疑問を持つのも、グートマンのそういった信頼性のなさによるところも大きいのです。



いずれにせよ、この曲は練習曲という枠組みを越えて、聴く人それぞれに豊かなイメージを想起させるため、歌詞をつけて歌曲として歌われていたりもしています。
私などは、個人的にこの曲を聴くと何故か卒業式をイメージしてしまいます。
自分の卒業式でこの曲が流れていたのでしょうか?…そのような記憶も特にないのですが、もしかすると、どことなく《蛍の光》とイメージが重なるものがあるからでしょうか?
ちなみに《蛍の光》というのはスコットランド民謡《オールド・ラング・ザイン(Auld Lang Syne=過ぎ去りし時代、久しき昔)》が原曲で、これに日本独自の歌詞を付けたものです。
ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732−1809)やベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770−1827)、あるいはシューマン(Robert Alexander Schumann, 1810−1856)なども編曲を手がけたりしているほど昔から世界中で親しまれている曲ですから、もちろんショパンも知っていたでしょうね。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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ショパン:練習曲 第12番 ハ短調 作品10-12「革命」

2013/01/18 01:39
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第12番 ハ短調 作品10-12「革命」 by Tomoro



Chopin : Étude No.12 in C minor Op.10-12 /Tomoro

● 作曲年:1830〜32年?
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第12番 ハ短調》は、《12の練習曲 作品10》の第12曲目(最終曲)です。
一般に《革命のエチュード》と呼ばれ、ショパンのエチュードの中でも特に有名なものの一つです。
「革命」と言うのはもちろん俗称で、これをそのように命名したのはリストです。それもショパンの死後、リストの主観によってですから、リストはこの練習曲集をショパンから献呈されていながら、ショパン自身の口からこの曲の作曲秘話について説明されていた訳ではない事が分かります。

この曲は、左手の細かい動きと、右手のオクターブのための練習曲とされています。されています…と言うのは、実はショパンは、これら各曲がそれぞれ何のための練習曲なのか、その練習課題を何も楽譜に書き記していないんですね。そんなところも、いかにも標題音楽を嫌うショパンらしい特徴だと言えるかもしれません。


この曲が作曲された経緯については、1831年9月(※当時22歳)、ショパンがウィーンからパリに渡る途中のシュトゥットガルトで、ロシア軍による「ワルシャワ陥落」のニュースにショックを受けて作曲したと言う話が有名です。
しかしながら、その逸話には何の資料的根拠もありませんし、しかもその話の出所は、ショパン伝に数々の嘘を盛り込んできた事でも有名な、かの国粋主義的伝記作家モーリッツ・カラソフスキーですから、したがって現在では作り話とされており、私もそのように考えています。
バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカは、この曲について次のように書いています。

「…(略)…ショパンの死後、「革命」というあだ名がつけられさえした。シュトゥットガルトで、ワルシャワ陥落の報に接したショパンがこの曲を即興的に書いたとする伝説もあるが、その蓋然性はほとんどなく、何よりもこの曲想自体が、敗北という悲劇によって彼が陥ったときの精神状態に合っていない。この練習曲はむしろ英雄的な活力、執拗に抵抗を続ける闘争の苦痛、革命精神といったものが充満している。」
(※バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より)


この曲は、すでにその前年の1830年の秋には構想されていたとも言われており、だとすれば、それはショパンがまだワルシャワにいた頃になりますから、ショパンがウィーンに到着した直後に勃発した「11月蜂起」とも直接関連がない事になります。
また、完成されたのはパリ時代に入ってからだとも言われていますから、だとすれば、「ワルシャワ陥落」の知らせに誘発されて即興的に書き上げたと言う話も事実ではない事になります。
おそらく、あのカラソフスキーの事ですから、彼は、リストがこの曲を「革命」と呼んだ事に便乗し、そこから勝手に想像を膨らませてそのような作り話をこしらえたのでしょう。
でも、だとすると、ショパンがシュトゥットガルトで「ワルシャワ陥落」のニュースを知ったと言う話自体が疑わしい事になりはしないでしょうか? なぜなら、その話の出所も同じカラソフスキーの伝記だからです。

すると必然的に、ショパンがその時に書いたとされている「シュトゥットガルトの手記(日記)」にしても、その信憑性が怪しいものになってきます。
ヘンリー・オピエンスキー編の『CHOPIN’S LETTERS』を英訳したE.L.ヴォイニッヒ夫人も、その序文で、この日記を贋作だと考えている由の事を書いています。
私もこの日記は贋作だと考えていて、その根拠は概ね以下の通りです。


【ショパンは日記など書かない】
そもそもショパンは自他共に認める筆不精で、日記や手記など書くようなタイプの人間ではありません。
もしもそのような習慣があるのなら、ワルシャワ時代の20年間やパリ時代の18年間においても同様に日記を書いていたはずです。ところがそのいずれにおいても、ショパンはただの一日たりとも日記や手記の類を書き残してはいないのです。この人は遺言書すら書かなかった位なのですから。それなのに、たった1年足らずのウィーン時代にだけ日記を書いていたなんて、まずその事自体が不自然です。
(※その詳細については「自他共に認める筆不精のショパンが、果たして日記など書くのか?」で)
しかもその日記帳(アルバム)は全部で150ページ以上もあったと言うのに、その中から抜粋紹介されたのはたった数ページでしかなく、その内容にしても、あまりにも愛国心一辺倒に偏向し過ぎています。そこからは、どうしたって日記帳の発見者の政治的意図を感じない訳にはいきません。
実際、これを発見して公表したスタニスラフ・タルノフスキーの著書『CHOPIN: AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY』(日記からの抜粋で明らかになったショパン)と言うのは、まさしく愛国的論調に主眼が置かれたもので、しかも資料的根拠のない作り話がいくつも盛り込まれたものでした。

【ショパンの恋の相手はコンスタンチア・グワトコフスカではない】
この日記帳(アルバム)には、ショパンの恋愛対象としてコンスタンチア・グワトコフスカが出てきますが、当時ショパンが恋していたのはグワトコフスカではありません。アレクサンドリーヌ・ド・モリオール伯爵令嬢です。これは本人がハッキリとそう手紙に書いている事です。
ところが、その手紙を最初に公表した伝記作家モーリッツ・カラソフスキーが、その事実を手紙から削除して闇に葬り、手紙の提供者であるティトゥス・ヴォイチェホフスキと結託して、モリオール嬢をグワトコフスカにすり替えてしまっていたのです。なぜ彼らがそんな事をしたのかと言うと、モリオール嬢が、当時ワルシャワを統治していたロシアのコンスタンチン大公家で家庭教師をしていたからです。熱狂的な国粋主義者で革命派だったカラソフスキーは、ショパンがそんな保守派の女性に恋していたと言う事実が許せなかったのでしょう。実際のショパンは平和主義者で、政治的には保守中立の立場でした。ところがカラソフスキーは、ショパンの実像を捻じ曲げて革命派として描くために、ショパンが保守派の人々と親密に交際していた事実をことごとく手紙から削除し、その代わりに、ショパンをポーランド的に美化するために、架空の恋愛相手まであてがって様々な作り話を加筆していたのです。
(※その詳細については「噂の恋人?「モリオール嬢」の存在について」で)

【日記帳の発見者が、グワトコフスカの四行詩について何も触れていない】
その日記帳(アルバム)には、旅立つショパンに向けてグワトコフスカが贈ったと言う四行詩が二つも書き込まれていたとされているのですが、しかしこの日記帳が最初に発見された時、その発見者であるタルノフスキーは、奇妙な事にそれについては何も触れていませんでした。
その四行詩はショパンと彼女の間に個人的な交流があった事を示す唯一の資料となるものなのに、それについて何もコメントしていないなんて事自体が不自然ですし、後世において別途発見され公表されたその四行詩にしても、少なくとも二つのうち一つは間違いなく贋作なのです。
(※その詳細については「グワトコフスカが書いたという、2つの四行詩の不審点」で)

【ショパンのパスポートは来月で期限切れにはならない】
この日記には、「来月をもって、僕のパスポートの有効期限が切れる」とありますが、これも事実ではありません。なぜならショパンのパスポートは、ウィーンの警察に預けていたものが紛失してしまい、そのためウィーンで新たに申請し直したものだからです。要するにこの贋作者は、カラソフスキーがショパンの手紙に加筆改ざんした誤った情報を引用して日記を創作してしまっているのです。
(※その詳細については「家族書簡・第9便におけるカラソフスキーの嘘」で)

【ホテルの個室にピアノなど置いてある訳がない】
この日記には、「僕はここで…(中略)…ピアノの前で心の苦しみを吐き出して」云々とありますが、そのような事は現実的にあり得ません。なぜなら、旅の途中で一時的に宿泊するだけのホテルの個室に、いちいちピアノなんか置いてある訳がないからです。
その証拠に、当時ヨーロッパ中を演奏旅行して回っていたリストには、次のようなエピソードがあります。
「…そんなリストが愛用していたのが三オクターブの無音鍵盤。音はでないけれど、持ち運びがかんたん。当時はいまみたいにホテルの部屋でもピアノが練習できる、なんてことはなかったので、「巨匠」も大いにこれを活用。移動中も馬車のなかでこの鍵盤を使ってひたすら練習していたのかもしれません。」(※『ピアノを読む本』(株式会社ヤマハミュージックメディア)より)

言うまでもなく、ショパンは演奏旅行などしていませんから、リストと違って無音鍵盤も持っていませんでした。

【ニュースを無批判に信じ過ぎる】
ワルシャワ陥落のニュースがシュトゥットガルトに届くまでに、当時の通信事情では少なくとも10日ぐらいはかかります。しかもその第一報ともなれば、それほど詳細な内容にはならないはずです。それなのに、この日記に書いてある事は、まるで現場を見てきたかのように詳細で正確な情報に基づいており、その上、書き手がその情報の信憑性について何の疑いも持っていません。まるで、それが歴史的事実である事を予め知っているかのようです。
それに、事件に対するリアクションも不自然です。普通はこのような場合、誰であっても、とにかくひたすら家族や友人達の無事を祈るものではないでしょうか? それなのに、もう最初から家族も友人達も殺されたに違いないとか、姉妹達は強姦されたに違いないとか、とにかく一番考えたくないはずの最悪の事態ばかり自分で勝手に決め付け、その妄想のみを根拠に事件を嘆き悲しみ錯乱しているのです。まるでそうあるべきだと望んでいるかのように強引で奇妙な発想です。それでいて、これだけ大騒ぎしておきながら、あとでみんなが無事だった事を知っても、そちらのビッグニュースに関しては一切何も書いていないなんて…。
つまりそれは、これが書かれた目的が、ただひたすらロシアの蛮行をプロパガンダする事だからに他ならないんですね。だからこそ、家族の無事よりもロシア憎しの方が大事なんです。でもそんなのがショパンであるはずがありません。
(※その詳細については「シュトゥットガルトの手記とは何なのか?」で)

【 発見者が信用できる人物ではない】
このアルバム(日記帳)の発見者であるタルノフスキー伯爵と言うのは、ショパンとポトツカ夫人が愛人関係にあったなどと言う噂を雑誌に書いて流布したりするようないかがわしい人物で、彼の著書『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』には、ショパンがそんな事をするはずがないと誰にでも分かるような嘘がたくさん書かれています。
たとえば、演奏会用に仕立てたスーツが気に入らなかったので自分より2倍近くも大男の弟子のスーツを借りて出たとか、作曲でどのフレーズを選ぶか悩んだ時は子供を呼んで選ばせたとか、《英雄ポロネーズ》を書き上げた直後に民族衣装を身にまとった兵士の亡霊が出て来たので逃げたとか、その他諸々…。
(※その詳細については「このアルバム(日記帳)は何処から出て来たのか?」で)

【 ポーランドの公的機関以外の筆跡鑑定は信用できない】
この手記は、発見者が「オリジナルはアクシデントによって失われた」として直筆資料を最後まで提出しなかったにも拘らず、その真偽が疑われると、後世において何者かがどこからともなく直筆資料なるものを出してきて、一応筆跡鑑定の結果それはショパンが書いたものであると認められてはいます(この経緯は、後のポトツカ贋作書簡の時と酷似しています)。
しかしながら、ポトツカ贋作書簡の事件の際にも露呈したように、ポーランドの公的機関以外の筆跡鑑定は決して信用できるものではありません。
(※その詳細については、イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)に書かれています)
ただ残念ながら、その直筆資料なるものも既に戦火に失われてしまっており、もはや現代の公的機関による科学的な筆跡鑑定にかける事はかないません。
それでも、ポトツカ贋作書簡の時もそうでしたが、その内容が現実的にあり得ないものであると言う厳然たる事実がある以上、そちらの方がむしろ鑑定結果なんかよりも遥かに重要なのではないでしょうか。

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ショパン:練習曲 第2番 イ短調 作品10-2

2012/01/25 21:47
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第2番 イ短調 作品10-2 by Tomoro



Chopin : Étude No.2 in A minor Op.10-2 /Tomoro

● 作曲年:1829年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第2番 イ短調》は、《12の練習曲 作品10》の第2曲目です。
右手の弱い指、つまり中指、薬指、小指の3本だけで半音階のメロディーをレガートで弾き、それだけでも難しいのに、それと同時に、残りの親指と人差し指で伴奏の和音をスタッカートで弾きます。
左手は主にスタッカートの伴奏ですが、途中で低音部でメロディーも弾きます。

ショパンがこの練習曲集に着手し始めたのは、1829年の秋頃(当時20歳)で、友人宛の手紙に以下のように書かれていたのが最初でした。
「形式に則った大きなエクセサイズを、僕独自のスタイルで作った。僕らが再び会った時に、君に見せよう。」
(※『1829年10月20日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

この時に作曲されたのが、《練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1》だと考えられています。
その翌月に、同じく手紙に以下のように書かれています。
「僕はエクセサイズをいくつか書いた;君の前で上手に弾かなければならないだろう。」
(※『1829年11月14日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

この時に作曲されたのが、この《第2番 イ短調》であろうと考えられています。

薬指と言うのは一番自由が利かない指で、ショパンですらその事を嘆いていたくらいで、シューマンなどは、この指を鍛えるための練習が災いして指を壊してしまい、ピアニストの道を断念せざるを得なくなったとも言われています。

ちなみに、ショパンがパリ時代の1833年にこの練習曲集を出版した際、ドイツのロマン派の詩人(歴史作家、劇作家)で音楽評論家でもあったルートヴィヒ・レルシュタープ(Ludwing Rellstab 1799−1860)が、この曲集を次のように痛烈に批判しました。
「指をゆがめてしまった人がこれらのエチュードを練習すれば、それをなおすことが出きるであろう。しかしそうでない人は少なくとも手近に外科医をかかえておかぬかぎり、こんなものを弾いてはならない」
(※『全音楽譜出版社 ショパン エチュード集』の解説より)

この人物はベートーヴェンの《月光ソナタ》の名付け親としても有名ですが、当時のショパンに対してはかなりな偏見を持っていたようで、彼のこの批判は、ひょっとするとこの《第2番 イ短調》を指して言っていたのかもしれないと、そのようにも思えてきます。
レルシュターブの理屈でいくと、シューマンの壊れた指はショパンのこのエチュードで治せる事になるはずなのですが…。
ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
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ショパン:練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1

2011/11/01 19:32
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1 by Tomoro



Chopin : Étude No.1 in C major Op.10-1 /Tomoro

● 作曲年:1829年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第1番 ハ長調》は、《12の練習曲 作品10》の第1曲目です。
右手のアルペジオのための練習曲で、右手が4オクターブにもわたる広範囲な分散和音を素早く弾く中、左手がオクターブで壮大なメロディを奏でます。
この曲は、1829年の秋頃に書かれたとされており、当時ショパンが友人宛に書いた手紙で次のようにコメントされていた事から、これがそれに該当するものと考えられています。
「形式に則った大きなエクセサイズを、僕独自のスタイルで作った。僕らが再び会った時に、君に見せよう。」
(※『1829年10月20日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

この手紙は、初めてのウィーン訪問から戻って約2ヶ月後に書かれています。


後年のパリ時代にショパンは、この練習曲を弟子に教えていた際、次のような事を言ったそうです。
「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンはわたしに勧めてくれました。
“このエチュードは役に立ちますよ。わたしの言う通りに勉強したら、手も広がるし、ヴァイオリンの弓で弾くような効果も得られるでしょう。ただ残念なことに、エチュードを練習しても、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです”と、彼は言うのです。
このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、わたしも先刻承知しています。でもショパンの場合には、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすればよかったのです。」
(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著/米谷治郎・中島弘二訳『弟子から見たショパン』(音楽之友社)より)

こう証言しているのはフリーデリケ・シュトライヒャー嬢(旧姓ミュラー)(Friederike Streicher née Müller 1816−1895)で、彼女はショパンから《演奏会用アレグロ イ長調 作品46》を献呈されているお気に入りの弟子の一人で、プロのピアニストであり、これは彼女が伝記作家のニークスに語ったものです。
この証言は、この練習曲の意図を理解する上で非常に参考になりますね。


さて、ショパンが弱冠20歳にしてこのような練習曲を書こうと思い立った動機については、様々な事が言われています。

一つには、同年の春にワルシャワを訪れたイタリアのヴァイオリンの巨匠ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini 1782−1840)に感化されたと言う説。
パガニーニがヴァイオリンで極めた超絶技巧は、当時のあらゆる音楽家達に影響を与えました。ショパンもまた例外ではなく、ショパンは彼の演奏を聴いて強い感銘を受け、《パガニーニの思い出》という変奏曲まで書いています。
ただ、パガニーニのワルシャワ公演が春だった事を思うと、それに感化されて練習曲を書き始めたとすると、その「第1番」がようやく10月になってから現れたと言うのでは、リアクションとしては若干遅いような気がしないでもありません。

もう一つは、自作の協奏曲における技術的困難を自ら克服するための手だてとして書いたと言う説。
その年にワルシャワ音楽院を卒業したショパンは、海外留学のために助成金の援助を申し出るのですが、これが却下されてしまい、仕方なく、友人達が計画した外国旅行に便乗する形でウィーン訪問を果たします。
ショパンは当地で、思いがけない形で2度の演奏会を開く事になりますが、これが大成功を収め、それを受けて、彼はいよいよ本格的なプロ・デビューに向けて準備する事になります。そのためショパンは、ワルシャワに戻ってから 、ついに自作の協奏曲の作曲に着手します。
当時はまだリサイタル形式の公演が行われていなかったため、ピアニスト兼作曲家が世に出るためには、自作の協奏曲を披露するのが習わしだったのです。
そしてそこにはもちろん、ピアニストとしての腕前を誇示するための名人芸も盛り込まねばなりませんでした。当時はリストを始めとするピアノの達人達がひしめく時代でしたから、そんな中で独自性を発揮しようと思ったら、とても一筋縄ではいかなかったのです。
その結果、ショパンは自分で自作の協奏曲の難しさを嘆いたほどで、それで、それを克服するために高度な練習曲を必要とした…と言うのです。


これらの説はどれも、いかにももっともらしいのですが、私は個人的に、実はショパンはリストに誘発されて練習曲を書いたのではないだろうか?と考えています。


リストは、10歳になる前からすでにプロの演奏家として公演活動をしていましたが、11歳の時の1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でツェルニーに師事しています。
リストの《超絶技巧練習曲》は、ショパンのそれと比肩するものとして有名ですが、実はこの曲集は2度にわたって大きく改訂されており、その初稿版が出版されたのは1826年で、何とリストがまだ15歳の時でした。
そしてそれは、ショパンが練習曲に着手するより3年も前の事です。

ショパンが1829年にウィーンを訪れた際、彼はリストの師であるツェルニーから歓待を受けています。
ツェルニー自身が練習曲の大家であり、その弟子のリストもすでに15歳当時に練習曲を出版していたと言うのですから、ツェルニーがその事を、リストと同世代のショパンとの間で話題にしないはずがないのではないでしょうか?
ツェルニーはベートーヴェンの弟子でもあったのですが、かつてベートーヴェンは、「ピアノの演奏法に関する著作を書きたいが時間がない」と語っていた事があり、ツェルニーはその意思を継いで練習曲集などを書き始めたとも言われています。
しかしながらショパンは、そのツェルニーについて、家族や友人に宛てた手紙の中で、彼の事を音楽家としてはあまり認めていないような事を書いています。

「チェルニーは、あの方のどの作品よりも暖かな人でした。」
(※『1829年8月19日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら

「彼(※クレンゲル)は上手に弾きましたが、しかし僕は、彼がもっと(静かに)弾いたら好きになっていたでしょう。彼はとても愛想よくしてくれました;彼は出発前に2時間ほど僕と一緒にいました。彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりで、僕達はその事について色々と話さねばなりませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、貧弱なチェルニーとのそれよりも感謝しています(しっ!)」
(※『1829年8月26日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら

「僕はチェルニーとすっかり親しくなった;しばしば2台のピアノで一緒に演奏した。彼は良い人物だ、しかしそれ以外は何も! プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう!」
(※『1829年9月12日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

一度ならず二度三度と…、具体的には触れられていませんが、ここには、ショパンの心象を相当悪くする音楽的な何かがあった事が察せられます。
私には、その答えがショパンの練習曲集だったのではないかとも思えるのです。ショパンが自分の練習曲についてコメントした先の手紙は、この手紙から約1ヶ月後だからです。

ショパンはパリ移住後、完成した《12の練習曲 作品10》を1833年に出版する際、”我が友”と書き添えてこれをリストに献呈しました。
これは、ショパンがパリに移住してから何かとリストに世話になった事への友情の印と言われていますが、果たしてそれだけだったのでしょうか?
そもそもショパンが練習曲集を書こうと思ったきっかけが、リストのそれに刺激されたからだったのではないでしょうか?

リストはどんな難曲でも初見で見事に弾きこなせたと言われていますが、しかしこのショパンの練習曲集だけはそれが出来なかったそうで、そのため彼は、文字通りこれを練習するために、一時期パリから姿を消していたと言う逸話が残っています。
そしてショパンは、そのリストの演奏を聴いて、友人宛の手紙に次のような事を書いています。
「僕は、自分のペンが何を書いているのか分からない状態で君に書いている。と言うのも、今この横でリストが僕のエチュードをいくつか弾いていて、僕から真面目な思考を奪ってしまうからだ。僕は自分のエチュードの弾き方を彼から盗みたいくらいだよ。」
(※『1833年6月30日付、リスト、ショパン、フランコムからフェルディナンド・ヒラー宛の手紙』より)

この寄せ書き風の手紙には、リストとショパンによるこんなやり取りも書かれています。
「[リスト]:君は、ショパンの素晴らしいエチュードを知っているかい? 見事なものだよ。[ショパン]:でも、君の作品がいずれ現れるまでの運命だろう。[リスト]:それは作曲者のつまらぬ謙遜だね! [ショパン]:この手紙の編集長(※リストを指す)は少々僭越だね。彼は、君によく分かるように僕の綴りの間違いをM・マーレーの方式に従って校正しているんだよ。」
(※同上より)

ショパンの練習曲集に誘発されたのかどうかは定かではありませんが、リストはこの3年後に、自らの練習曲集を大幅に改訂したものを出版します。その際彼は、それをショパンにではなく、師匠のツェルニーに献呈しています。
そして、更にその1年後には、今度はショパンが《12の練習曲 作品25》を、当時のリストの内妻であるマリー・ダグー伯爵夫人に献呈しています。
この一連の流れはどこか偶然とは思えず、リストとショパンという当時を代表する2人の音楽家が、心のどこかでライバル意識を持ち合い、お互いを高め合っていたのではないかと、そんな風に想像されるのです。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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