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みんなの「ピアノ協奏曲」ブログ


ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)

2012/05/18 14:05
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)
Chopin : Piano Concerto No.1 in E minor Op.11 (for one piano/Tomoro edition)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ by Tomoro




I. Allegro Maestoso /Tomoro

第2楽章 “ロマンス” ラルゲット by Tomoro



II. ROMANCE Larghetto /Tomoro

第3楽章 “ロンド” ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. RONDO Vivace /Tomoro

● 作曲年:1830年
● 出版年:1833年(オーケストラ伴奏版)/2010年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:フリードリヒ・カルクブレンナー氏


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、ちょっと趣向を変えて、この曲を私トモロー・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ホ短調・協奏曲のピアノ独奏版)からの続き〜


前回は、あるブログ記事に、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれていた事に対して反論しました。
その際に、ナショナル・エディションによるショパンのピアノ協奏曲のピアノ独奏版が、一つの作品としていかに不完全であるか、つまり、協奏的作品としていかに多くの不備を伴っているかについても説明しました。
たとえそれが、いかにショパン本人による編曲であろうと、その音楽的事実に関しては疑いのない事です。
したがって我々は、その楽譜の真に意味するところを見誤ってはいけないのだと思います。

そこで私は、そのような協奏的不備を補い、あくまでもピアノ独奏曲として完成されたものを聴いてみたいという思いから、《へ短調・協奏曲》の時と同じように、今回もこのようなピアノ独奏版を独自に編集してみようと思い立った訳なのです。

…と言うと少々大げさに聞こえますが、これは単に、2台ピアノ版のセカンド・ピアノから伴奏部分と協奏部分を抜き出し、それを1台ピアノ版の「間抜け」部分に移植しただけです。
ですから、元々楽譜になかった音を勝手に付け加えるなどの越権行為は一切していません。
とは言うものの、たとえば2台ピアノ版のセカンド・ピアノの伴奏をそのまま左手1本で弾くのは物理的に不可能だったりしますから、そう言った場合は私の判断で抜き出す音を吟味し、右手との兼ね合いなどからオクターブ調整するくらいはしています。
これなら、さほど原曲のイメージを損なう事もなく、協奏曲の独奏版と言うよりは、むしろ独立したピアノ・ソナタとして鑑賞に堪え得るものにもなるのではないでしょうか。



さて、ここで話をショパン自身のエピソードに戻しましょう。
《ホ短調・協奏曲》が作曲された経緯や、そしてそれがワルシャワでの告別公演で初演された事についてはすでにお話しましたので、ここではそれ以降の事について書きたいと思います。

ショパンは1830年11月2日に祖国ポーランドを発ち、ウィーンへと向かいます。当時21歳の事でした。
その旅の途中で立ち寄ったヴロツワフから、ショパンが家族宛に送った手紙には、以下のような事が書かれていました。

「…(前略)…そこへ行って見たら、オーケストラとピアノ、それにヘルヴィヒという、モシェレスの第一協奏曲・変ホ長調を弾く予定の役場の小役人のアマチュア演奏家とが準備していました。リハーサルに参加した演奏家達の数は、普通の事ながら少なかったです。彼が楽器の前に座る前に、僕の演奏をもう4年も聴いていないと言うシュナーベル氏が、僕にピアノの調子を調べて欲しいとの願いを申し入れてきました。拒否する理由もないので、(僕は)ピアノの前に座って、変奏曲をいくつか弾きました。シュナーベル氏は非常に喜んでくれましたが、ヘルヴィヒは(僕の前で)演奏する事を恐れて出演するのを断念し、他の人達が(僕に)夕方の演奏会に出演して欲しいと頼み始めました。殊更シュナーベル氏が是非にと言うので、この押しの弱い老人の依頼を受けない訳には行きませんでした。彼はエルスネルさんの大の親友であるとの事ですから。僕は数週間弾いていなかったし、ヴロツワフで演奏して拍手喝采を浴びるなど思いもよらない事だったのですが、(僕が)彼のために出演すると答えたところ、僕の事はすべてを知っていて、だから昨日、教会で僕に会った時、演奏を依頼したいと思っていたけど、頼む勇気が無かったのだそうです。そこで、彼の息子と一緒に楽譜を取りに行き、皆の前で第2協奏曲のロマンスとロンドを弾きました。これは演奏会前の練習でしたが、オーケストラのドイツ人達は僕の演奏に非常に感心したようです。彼らは、(僕が)“なんと軽快な指の動きをするのだろう”との驚きを見せましたが、曲自体については何も言いませんでした。ティトゥスの耳に、“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”と言う、彼らの内の一人の言葉さえ入ってきました。…(後略)…」
(※『1830年11月9日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら


伝記の上では、この時、ショパンの唯一無二の親友と言われているティトゥス・ヴォイチェホフスキがショパンに同行していたと伝えられているのですが、私は、その話は伝記作家のカラソフスキーとヴォイチェホフスキ本人による作り話だと考えており、実際には、ショパンは1人でウィーンに向かっていたのだと思っています(※その根拠はこちら)。

それはさておき、ショパンはこの夜の演奏会では、飛び入りだった事もあって、結局《ホ短調・協奏曲》の第3楽章のロンドだけをオーケストラ伴奏で弾き、あとはソロで即興演奏を披露しました。
その後ショパンはヴロツワフを発ち、ドレスデンを経て11月23日にウィーンに到着しますが、ところが肝心のウィーンでは、たった1年で状況ががらりと変わってしまっており、期待に反して昨年のような後押しが得られず、なかなか演奏会を開く事ができませんでした。

年が明けてしばらくした後、やっと4月4日に客演として演奏会に参加しますが、出演者はたった10人でオーケストラも使えず、ショパンは《ホ短調・協奏曲》を抜粋で、しかも、おそらくピアノ独奏版で弾いたのだろうと言われています。
しかしながらその演奏会は、観客の数よりも出演者の数の方が多かったと揶揄されるような有様で、ショパンの名声にとって何の足しにもならないものでした。

次にウィーンの舞台に立ったのは、6月11日に行なわれた慈善演奏会で、この時のメインの演目はバレエでした。
ただし、前回と違ってオーケストラが使えたので、ショパンは《ホ短調・協奏曲》の全楽章をオーケストラ伴奏版で演奏しました。
ちなみにショパンは、この曲をワルシャワの告別公演で初演した時、最初に第1楽章を弾き、他者の演目を挟んだ後に第2、第3楽章を弾くと言うプログラムを組んでいましたが、この時もやはりそうしていました(※ショパンは、ワルシャワでのプロ・デビュー公演で《ヘ短調・協奏曲》を弾いた時にも、同様のプログラムの組み方をしていました)。
この演奏会の様子は、当時のウィーンの『一般演劇時報』(1831年6月18日付)で、以下のように報じられています。

「…(前略)…ワルシャワ出身のこの若き音楽家は、流行に迎合した興味本位で軽薄な音楽で、はかない名声を得ようとすることなく、独自の道を進む芸術家の一人である。彼の演奏は優美で非常に洗練されている。曲そのものは透明感に満ちた展開をするが、テンポはいささか奔放すぎるきらいがあり、華麗で印象的なカデンツァを用意してはいるものの、もう少し変化があるほうが望ましい。
しかしこれはさほど重要な問題ではなく、訓練と経験によって改善されるものである。彼はかっさいを浴び、第一楽章が終わると舞台に呼び戻された。また、次にアダージョとロンドを演奏した後にも同じような反応を受けた…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』東京音楽社より)


ところが、それなりに好評だったにも関わらず、この演奏会も思ったより客が入っておらず、出演者への支払いすらないと言う有様でした。
当時のウィーンは、もはや「音楽の都」と呼ぶに相応しいものではなくなってしまっており、音楽家も聴衆も、音楽を芸術として真剣に追求しようとするような風潮ではなくなっていたのです。
ショパンはウィーンでの音楽活動にすっかり希望を失くし、その後コレラの流行などもあったりしたため、ついにウィーンを去る決心をします。

パリへ行くためのパスポートの取得に手間取りはしましたが、1831年6月20日に出発し、途中でミュンヘンに立ち寄ります。
この時ショパンは、ワルシャワにいる父からの送金を待つため当地に留まり、その際にミュンヘンの王室歌劇場で指揮者を勤めるシュトゥンツに誘われて演奏会に参加する事になります。
ここでもショパンは《ホ短調・協奏曲》を弾きますが、ただしこの時は、会場の小ささや当時の批評文から察して、2台ピアノ版での演奏だったのではないかと言われています(※ちなみに、この時は《ポーランド民謡による大幻想曲》も弾いており、そちらの方が会場の反応が良かったのだそうです)。


それからようやく、同年の9月末頃に、ショパンは新天地のパリに到着します。
ショパンが23歳の時でした。

パリに落ち着いて間もなく、ショパンは、少年時代から憧れの存在でもあった当代随一のピアニスト兼作曲家であるカルクブレンナーと知り合いになります。
カルクブレンナーは直ぐにショパンの才能に気付き、自分の弟子にしてあげるとまで申し出たほどでした。
ショパンはその話は辞退しましたが、カルクブレンナーはショパンがパリで演奏会を開けるように尽力してくれ、その甲斐あって、翌1832年2月26日に、ショパンにとっても音楽界にとっても歴史的なショパンのパリ・デビュー公演が行なわれたのでした。

ショパンはそこで、《ホ短調・協奏曲》や小品をいくつか演奏しました(※プログラムには《「お手をどうぞ」による変奏曲》も載っていたのですが、どうやら本番ではやらなかった可能性が高いそうです)。
客席は満席とはならなかったものの、リストやメンデルスゾーンを始めとする、当時パリにいた主要な芸術家や評論家達が聴きに来ていました。
その事が幸いし、この演奏会における小さな成功は、やがてセンセーショナルな出来事としてパリ中の噂になったのでした。
この演奏会の様子は、当時のパリの音楽雑誌『レビュー・ムジカール』(1832年3月3日付)で以下のように評されました。

「…(前略)…彼は先人をまねることなく…(中略)…しかも他には見られない独自の曲想を豊かに持ち合わせ…(中略)…この種の分野に大きな衝撃を与えた…(中略)…ショパンは協奏曲を披露し、曲の組み立て、転調、全体の展開、そして曲想の新鮮さで聴衆を楽しませると同時に驚愕させた。…(中略)…しかし全く欠点がなかったわけではない。転調が過度に行なわれて、展開がやや秩序に欠けるきらいがあり、完成された曲というより即興演奏を聴いているような趣きがときおり感じられた。だがこのような欠点は本人の年齢に帰するもので、経験を積むにつれて消えていくに違いない。ショパンのこれからの作品がデビューで得た期待にこたえらるようなものであれば、彼は疑いなく、華々しい、そして受けるにふさわしい評価を勝ち得ることだろう。…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』東京音楽社より)


同誌では、ショパンの演奏についても、「称賛に値した」としつつも、今後はさらに「力強い演奏」を求める由も書かれており、ショパンの演奏会に必ずついて回る音の小ささが、遠回しながらも指摘されていました。

以前、ショパンの伝記等では、この時に弾いたのは《ヘ短調・協奏曲》の方だったとされていたのですが、最近の研究で、あらゆる資料や当時の関係者らの証言によって、《ホ短調》の方だった事が確認されています。
これについては、小沼ますみ著『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)に詳しく書いてありますので、興味のある方は是非ご覧になってみて下さい。

ショパンは、まだウィーンに到着した当初は、家族宛の手紙の中でヘ短調を弾くかホ短調を弾くか迷っていた時期もありましたが、結局、ワルシャワでの告別公演で《ホ短調》を初演して以来、このパリ・デビューに至るまでの間、一貫して《ホ短調》の方を弾き続けていた事が分かります。

この《ホ短調・協奏曲》がもたらした成功によって、ショパンは出版社との契約を取り付け、それを受けて同曲を1833年に出版した際には、これを恩義あるカルクブレンナーに献呈したのでした。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版)

2012/05/06 12:03
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版)
Chopin : Piano Concerto No.1 in E minor Op.11 (for one piano)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ by Tomoro




I. Allegro Maestoso /Tomoro

第2楽章 “ロマンス” ラルゲット by Tomoro



II. ROMANCE Larghetto /Tomoro

第3楽章 “ロンド” ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. RONDO Vivace /Tomoro

● 作曲年:1830年
● 出版年:1833年(オーケストラ伴奏版)/2010年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:フリードリヒ・カルクブレンナー氏


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ホ短調・協奏曲の2台ピアノ版)からの続き〜


今回は、前回ちょっと触れたあるブログ記事についてです。
そこには、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれています。
果たして本当にそうなのでしょうか?
ショパンがピアノ協奏曲を書くにあたって、ワルシャワ音楽院の3年間でいかに計画的に準備を進めてきたか、そしてそれを院長のエルスネルがいかに綿密に順序だてて導いていたか、それについては前回説明した通りですが、これは、そういった彼らの努力に対する冒涜とも言えるような話です。

まず、それを検証するために、その記事の内容を以下に引用させて頂きたいと思います。
この箇所は、ナショナル・エディションによる協奏曲のピアノ独奏版について言及されている部分です。

「…(前略)…ところが、この作品の世界初演をした河合優子さんにお話を伺ったら、まったく新しい事実がわかりました!! ショパンのピアノ協奏曲は、後から独奏版が編曲されたのではなく、もともとショパンがピアノ独奏の楽譜を書いていて、後からオーケストレーションしたものだったと言うのです。最初から1人用の楽譜があったというわけなんです!! 誰もそんなこと知りませんでしたよね? 19歳、20歳くらいのまだ若いショパンは、オーケストレーションに慣れていなくて、ここはフルートだな、ここはチェロだなというイメージを思い浮かべながら、まずピアノ・ソロで楽譜を書いたらしいのです。それから、もっと驚いたことは、最終的にオーケストレーションの詳細をショパン自身がやっていない!! 天才ショパンと言えども、まだ若く経験がないので、間に合わなくて誰か経験豊富な先輩音楽家に頼んだみたいなんです。フル・スコアに残っている筆跡が明らかに違うし、オケとピアノが短2度でぶつかったり、同じ人間が書いていたらありえないことが起きていると河合さんはおっしゃっていました。…(後略)…」


ここに書かれている話をそのまま受け取ると、ショパンはまず、協奏曲を想定しつつピアノ独奏曲として作品を書き、それをあとで先輩音楽家にオーケストレーションしてもらった…と言う事になるのだそうですが、それはとんでもない認識間違いをしているように思われます。
おそらく、この話の大元はナショナル・エディションの編者であるエキエルなのだろうと容易に想像がつきますから、単にその受け売りをしているだけなのでしょうけど…。

まず、今回お送りしているピアノ独奏版をお聴き頂ければ明らかなように、これはそもそも「独奏版」などと呼べるような代物ではありません。なぜなら、これ自体がきちんと完成した独奏作品としての体を成していないからです。
エキエルはナショナル・エディションの解説で、「我々は、ホ短調・協奏曲のピアノ独奏版をショパン自身が人前で演奏した可能性を除外する事が出来ない。」と書いていますが、その「可能性」が考えられるのはせいぜい第2楽章だけで(※それは《ヘ短調・協奏曲》の第2楽章についても同様)、ショパンは、ソナタや協奏曲のような多楽章形式の作品については、抜粋で演奏する事が多く、その事実を証明する証言や資料はいくつも残っています。

一方、第1楽章と第3楽章については、この独奏バージョンをショパンが人前で披露していたとはとうてい信じられません。
《ヘ短調・協奏曲トモロー・エディション》の項でも書きましたが、この独奏バージョンと言うのは、本来のオーケストラ版のピアノ・パートがそのまま流用されてほとんど手が加えられておらず、単にそのピアノ・パートの休符部分のみにオーケストラ・パートが継ぎ接ぎされているだけなんです。
本当にただそれだけの楽譜です。
だからその結果として、ピアノ・パートが主旋律のみを弾いている箇所では、オーケストラ伴奏がスッポリと抜け落ちて無伴奏状態になっており、また、逆にオーケストラが主旋律を担当してピアノが伴奏に回っている箇所では、オーケストラによる主旋律がスッポリ抜け落ちてピアノのカラオケ状態になってしまっています。

つまり、肝心要のピアノとオーケストラによる「協奏的部分」がほとんど省略され、協奏曲としての作品の意図がちっとも反映されていない訳です。
これに関しては、ナショナル・エディションで刊行された全ての協奏的作品のピアノ独奏版について同じ事が言えます。
ですから、それらを聴くと、オーケストラ版による原曲を知っている人はもちろんですが、知らない人が聴いても、所々間の抜けた印象を抱いてしまう訳です。
そのようなものを、あの完璧主義のショパンが完成作品と見なし、人前で披露するなんて事が果たして考えられるでしょうか?

つまり、本来のピアノ・パートにほとんど手が加えられていないと言う事は、この独奏バージョンが独奏曲としてでなく、最初からオーケストラありきで書かれたものである何よりの証拠であり、ショパンが当初からそのオーケストラ・パートを念頭に入れながら作曲していたと言う事なんです。
ですから、あとで他人にオーケストレーションを依頼するはずがありません。
最初から自分の頭の中にオーケストレーションについてのアイディアがあったからこそ、この独奏版では、その協奏的部分がスッポリ抜け落ちているんです。

したがって、この中途半端な独奏バージョンの存在意義を最も正当に説明できるとしたら、このバージョンは、ショパン本人を含めたプロのピアニスト、もしくはピアノ学習者が、将来的にオーケストラや弦楽四重奏、もしくは2台ピアノと共演するにあたって、自宅で1人で練習するために便宜が図られた楽譜であると、そう解釈する以外にはありません。
だからこそ、所々無伴奏になろうがカラオケになろうがおかまいなしに、独奏作品として完成させる事は念頭になく、それゆえ、本番で共演する事を前提に、本来のオーケストラ版のピアノ・パートがほとんどそのままにしてあるんです。
なので、この独奏版は、これそのものを演奏会等で披露する事を目的としたものではあり得ません。
例外は《ヘ短調・協奏曲》の第2楽章だけで、この曲だけ、中間部の両手ユニゾンがメロディ・パートと伴奏パートに振り分けられています(※しかしながら、オーケストラ版でのトレモロによる伴奏のアイディアはまだ構想されていなかったのか、そこには反映されていません)。

上記のブログ記事でもコメントされていたように、このピアノ独奏版に対し、聴く方も「また聴きたいとは思わないな」と感じ、また弾く方も「2度と演奏したくないね。やっぱり、コンチェルトはオーケストラとやりたいよ」と感じるのは、正にこれがそう言うバージョンだからです。


もう一つ、「フル・スコアに残っている筆跡が明らかに違う」と言う事についてですが、それは確かに一面においては事実です。
事実ですが、しかしその事が、ショパンがオーケストラの楽譜を自分で書かなかった事の証拠には決してなりません。ショパンは間違いなく、最初は自分でオーケストラのパート譜を書いています。ただ、その自筆譜が現存していないだけです。

その証拠に、ショパンが1829年に初めてウィーンを訪問した時、彼は、当時の自分の最新作である《ピアノとオーケストラのための演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》の楽譜を持参していたのですが、そのオーケストラ・パートの楽譜を自分で書いたと、はっきりそう自分で証言しているからです。
それは以下の通りです。

「…(前略)…リハーサルでオーケストラの伴奏が不出来だったため、僕はロンドを《フリー・ファンタジア》(※即興演奏)に代えなければなりませんでした。…(中略)…)オーケストラは、僕の楽譜の書き方が悪いと言ってけなし、少しも僕に好意的ではなかったのですが、それも即興演奏を弾くまででした。…(後略)…」
(※『1829年8月12日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら


この時のリハーサルでのトラブルについては、友人宛の手紙でも以下のように詳しく説明されています。

「…(前略)…僕は一日で、ウィーンにいる全ての偉大な芸術家達と知り合いになった;その中には、マイセダー、ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、シュパンツィッヒ、メルク、レヴィがいる。それにも関わらず、オーケストラはリハーサル中、不機嫌にしていた。まず第一に、僕が思うに、僕がどこからともなくやって来たばかりなのに、すでに自作の曲をやろうとしていたからだろう。それから僕は、ロンド・クラコヴィアクの次にやる事になっていた変奏曲、君に捧げたあの変奏曲(※《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》)を初めにやった。変奏曲は上手くいったが、ロンドの方は(※楽譜の)書き方が悪かったため、何度も最初からやり直さなければならなかったほどひどかった。全ての混乱の原因は、楽譜の上声部と下声部で休符の書き方が違っていたからなんだが、でも僕は、上声部だけで数えるように説明しておいたんだけどね。それは部分的には僕の落ち度だったけど、でも彼らは分かってくれると思っていたんだ。でも彼らは(※楽譜の)不正確さに腹を立てていて、その上この紳士達は、自身が名手であり作曲家でもあったからね。とにかく、彼らは数々の嫌がらせをして、その晩の僕は病気にでもなりそうだったよ。…(後略)…」
(※『1829年9月12日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


この時のショパンは、初めて訪れたウィーンの地でまさか自分が演奏会を開く事になるなどとは夢にも思っていませんでした。
ウィーン訪問の目的の一つに、以前ショパンが楽譜の出版を依頼して作品を送ってあったのに、その後何の音沙汰もなくなっていたハスリンガーに直接会ってお伺いを立てる事がありました。
ですから、《「お手をどうぞ」による変奏曲》の方は、すでに出版用に清書された楽譜がウィーンのハスリンガーの許にあったのです。
一方、新作の《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」》の方は、この機会に売り込む目的で持参して行ったのか、それとも、かつてワルシャワ音楽院の恩師の1人だったヴェルフェルに見せるだけのつもりだったのか、定かではありませんが、いずれにせよ、出版用、もしくは実演用に清書したものではなかった事だけは確かです。

なぜなら、もしもその楽譜が、ショパン本人ではなく誰か経験豊富な先輩音楽家に書いてもらったものだったなら、そのような休符の書き間違いなどある訳がないからです。
他でもない、オーケストラ譜に不慣れなショパン自身が書いたからこそ、そのようなトラブルを引き起こす羽目になったのです。
このエピソードは、ショパンが自分自身でオーケストレーションをし、そしてだからこそ自分で楽譜を書いていたのだと言う事実を如実に物語るものです。

それでは、なぜその自筆譜が残っていないのでしょうか?
その答えも簡単です。
ショパンは演奏会を開くに当たって、指揮者やオケのメンバーのために用意する本番用の楽譜を自分では書いていなかったからです。正確には、自分で清書していなかったと言った方が正しいでしょう。
つまり、ピアノ・パートの楽譜のみ自分で書いたもので、それ以外のフル・スコアやパート譜は演奏会の準備のために他人が写譜していたものなんですね。
その事実を伝える手紙が以下のもので、それは、ここで問題にしている《ホ短調・協奏曲》について言及したものす。

「…(前略)…(※ウィーンへの)旅行が近くなっているので、僕は今週、四重奏の伴奏で協奏曲(※ホ短調)の全部をリハーサルしなければならず、四重奏と僕とで合わせて、少し馴染ませるのだ、と言うのも、エルスネルが言うには、そうしないとオーケストラとのリハーサルがうまくいかないのだと。リノフスキは時間との競争でそれを写譜しており、ロンド(※終楽章)に着手したところだ。…(後略)…」
(※『1830年8月31日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


要するに、このようにして他人に写譜された楽譜のみが現存していて、オリジナルのショパンの自筆譜が失われていれば、両者の筆跡が違ったり誤記があったりしても何の不思議はない訳です。
元来が筆不精なショパンは、ピアノ独奏用の小品ですら楽譜を清書するのをめんどくさがっていたような人なので、パリ時代には、ほとんどそれを友人で秘書でもあったフォンタナにやらせていたのです。その事実もきちんと手紙で確認されています。


また、《ホ短調・協奏曲》の第2楽章の楽譜には、ヴァイオリンに弱音器を付けるように指示されていますが、そのアイディアもショパン自身が作曲当初に構想していたものです。それについては2度に渡って、手紙で以下のように言及されています。

「…(前略)…弱音器はヴァイオリンの弦の上にとめる櫛のようなもので、ある種鼻にかかったような銀色のトーンになる。おそらく、それは間違っているのだが、しかし、なぜ人は分別があるにも関わらず、間違った事を書くのを恥じなければならないのか――間違いかどうかは結果で示すべきだ。ここで君は、なるほど、僕が意に反して過ちを犯す傾向があると観察する。たとえそれが間違いであるとしても、僕は無意識のうちに僕の目を通して頭に浮かんだ事に対しては、身を任せてみたいのだ。君も理解してくれていると思う。…(後略)…」
(※『1830年5月15日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら



「…(前略)…また、大学が今日から始まるので、僕はエルスネルとビエラフスキ(※劇場付の楽長)の所へ飛んで行かねばならず、昨日すっかり忘れていた譜面台と弱音器を確認するのだ。それらがないとアダージョ(※第2楽章)はボロボロになってしまうが、僕は実のところ、それが成功するとは思っていないのだ。…(後略)…」
(※『1830年9月22日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


このように、ショパンが手探り状態ながらも自分でオーケストレーションしていた事実を証明する間接的な資料は、それこそいくらでもあるのです。
たまたま戦火を免れて現存している楽譜が自筆譜じゃなかったからと言って、それが、ショパンが自分で楽譜を書いていなかった事の証拠になどなりはしません。
祖国ポーランドが長きに渡って歴史的不幸に見舞われたために、ショパンの作品に関しては、自筆譜が確認されていない作品など枚挙に暇がないほどあるのですから。

エキエルはとにかくショパンの自筆資料を神のごとくに絶対視し、そこにこそショパンの意図があると言う考えにとらわれていますが、しかし、ショパンは自分で清書しない事が多かったのも事実である以上、自筆譜の方こそ逆にショパンの意図する完成形ではない可能性だって十分にあり得る訳です。

実際、パリ時代のショパンはフォンタナに楽譜の清書を頼む際に、変更事項の注意を手紙に書き添えている事があるのです。
でも、それが手紙でなされて残っているならいいですが、手紙が失われていたり、口頭で伝えたりしていた場合には、その痕跡が残りません。
その場合、自筆譜と実際の出版譜に違いがあっても、その変更がショパンの意思によるものなのか、それとも出版社が勝手にやった事なのか、我々にはもはや分かりようがない訳です。

たとえそれがショパンの自筆譜であろうと、資料と言うものは、あらゆる周辺情報や状況証拠と照らし合わせながら、あくまでも客観的に読み解かなければならないものです。
それなのに、ポーランドのショパン研究家というのは、往々にしてショパンを神格化しすぎるため、得てして物の見方が主観的になりがちで、研究者として必要不可欠な客観性に欠ける嫌いがあります。

おそらくエキエルは、「ショパンがオーケストレーションを苦手としている」という定説に対して、それは他人がやっていたからで、決してショパン本人の落ち度ではないとでも言いたかったのかもしれませんが、いずれにせよ完全に間違った解釈です。


さて、次回は、《ヘ短調・協奏曲》の時にも試みたように、このナショナル・エディションのピアノ独奏版の協奏的不備を補完したピアノ独奏版として、私トモロー・エディションによるピアノ独奏版を紹介すると共に、《ホ短調・協奏曲》のパリ・デビューまでの道のりについてお話ししたいと思います。


次回(ホ短調・協奏曲トモロー・エディション)へ続く〜


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちら)。
なので、当ブログではそれに則ってショパンの年齢を数えています。

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ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(2台ピアノ版)

2012/04/30 23:58
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(2台ピアノ版)
Chopin : Piano Concerto No.1 in E minor Op.11 (for two pianos)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ by Tomoro




I. Allegro Maestoso /Tomoro

第2楽章 “ロマンス” ラルゲット by Tomoro



II. ROMANCE Larghetto /Tomoro

第3楽章 “ロンド” ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. RONDO Vivace /Tomoro

● 作曲年:1830年
● 出版年:1833年(オーケストラ伴奏版)/2010年(2台ピアノ版)
● 献呈者:フリードリヒ・カルクブレンナー氏


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによる2台ピアノ版でお送りいたします。
尚、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに配置してあります。


ショパンは、ピアノ協奏曲を書くに当たって、極めて計画的に準備を進めてきました。

たとえば、ショパンがそれ以前に手掛けたオーケストラを伴う作品を順に見ていくと、
 1.《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》(1827年)
 2.《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13》(1828年)
 3.《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》(1828年)
最初の2作が他の作曲家のテーマを使ってオーケストラ・アレンジの習得を兼ねていたものだとすれば、3作目は自作のテーマでそれを試したものと言う事になります。

また同様に、ショパンが手掛けた多楽章形式(ソナタ形式)の作品を見ていくと、
 1.《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4》(1827〜8年)
 2.《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》(1828〜9年)

これらは全て、ショパンがワルシャワ音楽院に在籍していた3年間に書かれたもので、それはすなわち、ショパンが何のために音楽院に通っていたのかを物語るものです。
つまり、「ピアノ協奏曲」を最終目標に据えて、ショパンがきちんと順を追って作曲の勉強をしていた事を表しています。これはもちろん、音楽院でショパンに作曲を教えていたエルスネル院長の導きによるものです。

なぜ「ピアノ協奏曲」を書かなければならなかったのかと言うと、当時のピアニスト兼作曲家がプロ・デビューするに当たっては、それを披露するのが一般的な慣わしだったからです。
当時はもちろんレコードもCDもありませんから、音楽家が作品を発表するには実演するしかありません。それで宣伝しなければ、もちろん楽譜も売れない訳です。
そしてそれを実演する場が演奏会だった訳ですが、当時の演奏会と言うのは、現在とはちょっと事情が違っていました。
元々「演奏会」と言うのは、多くの共演者や様々な芸術的演目が雑多に盛り込まれて行なわれるイベントで、一種のバラエティー・ショーのようなものでした。
ですから、たとえば1人のピアニストが最初から最後までたった1人で独演会を行なうようなリサイタル形式の催し物と言うのは、現在でこそそちらの方が一般的ですが、当時はまだなかったのです。それを最初に始めたのはフランツ・リストで、1839年になるまで待たなければなりません。
ヨーロッパの国々では、「協奏曲」と「演奏会」が同じ単語で語られている事からも分かるように、そのような「演奏会」にあって「協奏曲」は正にその象徴的な演目だったのです。
しかも、当時まだ新しい楽器として進化を続けていたピアノとピアノ音楽の世界においては、「ピアノ協奏曲」と言うのは、ピアニスト兼作曲家がピアニストとしての腕前と作曲家としての総合的な能力を一度に披露するのに打って付けでした。
ですから、当時すでにワルシャワではその両方において右に出る者のいなかったショパンですら、正式にプロとして世に出て行くためには、望む望まずに関わらず「ピアノ協奏曲」を書かねばならなかったのです。

また、そんな時代の流れを反映して、当時のピアノ協奏曲は、古典派時代に比べてずっとピアニスト寄りになっていました。したがって協奏的要素(たとえばピアノがオーケストラの伴奏に回ったり、両者が掛け合いをするなど)が減って、オーケストラはほとんどピアノのための伴奏に終始する傾向が強くなります。文字通りほとんど「カラオケ」のようなものです。
ショパンは、たとえばフンメルやカルクブレンナーに代表されるような、そういった古典派とロマン派の間に位置する当時の先輩ピアニスト兼作曲家達の作品をお手本にしていました。
ですから、ショパンのピアノ協奏曲も彼らと同じような傾向にあり、ピアノの優位性に対してオーケストラは極めて控えめになっています。
ところが、そのために、そう言った当時の音楽事情が忘れ去られた後世においては、ショパンはオーケストラ・アレンジが不得手であると言った評判が定説化してしまいます。
それだけならまだしも、その欠点を補おうとして、勝手にオーケストラ・パートを充実させた編曲版までもがいくつも登場してしまうと言う始末です。

確かにショパンはオーケストラ・アレンジが得意だったとは言えないのかもしれませんが、しかしこれは得意不得意の問題と言うよりも、元々ショパンの関心がピアノ独奏曲の方により強く傾いていたと考えた方が正しいように思われます。
ショパンが、心身ともに非常な労力を要する演奏会を好んでいなかったのは事実ですし、また、ピアノの音が小さい事を欠点として常に指摘されるため、オーケストラとの競演にも積極的ではありませんでした。
だからこそ、パリ移住後に名声を確立し、作曲とレッスンだけで生計が立てられるようになってからは、苦手な演奏会をしなくても済むようになったので、そのためほとんど演奏活動をしなくなります。
必然的にオーケストラを伴う作品を書く必要もなくなり、その結果、自ら自分の本分とみなしたピアノ独奏曲の作曲のみに専念するようになるのです。


さて、ショパンが書いた2つの協奏曲のうち、2番目に手掛けられたのが本作の《ホ短調》になります。当時、ショパンが21歳の事です。
最初の《ヘ短調・協奏曲》が1830年3月17日にワルシャワでのプロ・デビュー公演で初演され、その一大イベント(追加公演もあり)の終了後、直ぐに着手されました。
現在では《ホ短調》の方が《第1番》となっていますが、それは作曲順と出版順が逆になったためです。

そうなった理由については、ショパンの関係者の証言で、「最初の出版に際して、ヘ短調のオーケストラ総譜が見当たらなかったので、かわりにホ短調を送ったため」(※下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』より)とショパンが語ったと言うものが伝えられています。しかしこのような話には全く現実味がありません。
まず、協奏曲のような大掛かりな作品の楽譜が「見当たらない」なんて話にも現実味がありませんし、そのかわりに別のを送ったなんて話にも全く現実味がありません。
ショパンが《ホ短調》の方を先に出版したのは、当時のショパンがあくまでもそちらの方を自信作とみなしていたからで、現にパリのデビュー公演では《ホ短調》の方を演奏し、それが好評を得て、それで出版にこぎつけたからです。ですから、そうして出版された《ホ短調》の楽譜には、作品の紹介文としてその由がきちんと書き添えられています。
また、同曲がカルクブレンナーに献呈されたのも、ショパンのパリ・デビュー公演が彼の尽力なくしては開けなかったからで、その事に対する感謝の意味もあったのです。
そのような状況なのに、当時まだパリでは無名に近かったショパンが、まだ聴衆の前で一度も披露していない《ヘ短調》の方を先に出版しようと考えていたはずがない訳です。

ショパンが結局《ホ短調》の方ばかりを演奏会で弾いていた事に関連して、パリ時代にショパンに師事したレンツが以下のように証言しています。
「ショパンがとくに力をいれて練習させたのは、コンチェルト ホ短調作品11であり――この曲の第1楽章は最も完成されたものとして彼の目に映っていた――この曲は彼が演奏会で弾いていた頃の思い出に結びついているものであった。“わたしはこの曲が大好きでした。昔はこれを弾いていたのです!”と、彼は独り言のような口調で話すのである」
(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著/米谷治郎 中島弘二訳『弟子から見たショパン』(音楽之友社)より)



《ホ短調》の初演は1830年10月11日で、ワルシャワでのショパンの告別公演においてでした。
翌日の新聞では、以下のように伝えられています。

「昨日、音楽を愛する者たちにとってこの上なく楽しい夕べが催され、約七百人の音楽愛好家がその恩恵に浴した。ショパンが作曲し、彼自身の演奏で初演された新しい「ピアノ協奏曲 ホ短調」は、あらゆる音楽の頂点を極める作品と評価された。とくにアダージョ(※第2楽章。出版時にラルゲットに変更)とロンド(※第3楽章)はすべての者に歓喜とともに受け入れられた。作曲者であり演奏者であるショパンは嵐のような拍手を受け、演奏が終わるごとに呼び出された。…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝晃一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』より)


これと同じ日にショパンが友人宛に書いた手紙でも、ほとんどこの新聞記事と大差ない内容の事が報告されています(※その手紙の全文はこちら)。

この時は、公演直後にショパンがウィーンへの出発を控えていた事もあってか、追加公演は行なわれませんでした。



ちなみにこの曲の第2楽章について、ショパンは友人宛の手紙で以下のような事を書いたとされています。

「新しい協奏曲のアダージョはホ長調だ。大袈裟に響かせるつもりはなく、よりロマンス風で、静かで、メランコリックだ;幾千もの大切な思い出が心に浮かんでくるような場所を、優しく見つめているような印象を与えなければならない。それは、美しい春の空の下、月光に照らされた小屋の中での、一種の瞑想だ。…(後略)…」
(※『1830年5月15日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


しかしながら、自分の作品を文学的に解釈される事を誰よりも嫌っていたショパンが、自ら自分の作品にこのような文学的解説をしてみせるなんて事は、絶対にありえない事だと断言できます。
稀にショパンが自分の作品についてコメントする時があっても、決して具体的な作品解説みたいな事はせず、必ずショパン特有のひねくれた言い回しでジョークを書くくらいなのです。
たとえば、《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》については、こんな具合に書いていました。

「《ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク》の楽譜は出来上がったよ。序奏は独創的だ、御伽噺にでも出てきそうな滑稽極まりないコートを着た僕よりずっとね。」
(※『1828年12月27日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


これこそが、いかにもショパンらしい言い回しと言うもので、これと比べると、先のアダージョのくだりが、いかに何のひねりもなく「そのまんま」で、誰にでも簡単に書けてしまうような稚拙なものであるかが分かるでしょう。
これは明らかに、作曲者が曲を書いた際の秘話などと呼べるような代物ではなく、あくまでも第三者の鑑賞者が曲を聴いた際の感想文であり、それ以外の何物でもありません。
要するに、その文章を書いた人間の芸術的センスがその程度のものだと言う事なんですね。

したがってこの記述は、他でもない、この手紙の受取人であるヴォイチェホフスキが書いたものです。
彼が、伝記作家のカラソフスキーに資料提供するためにこの手紙の「写し」を取った際に、読者の興味を引くために、あるいは、ショパンは自分にだけはこんな事まで打ち明けてくれていたんだと、そんな友情物語を捏造するために勝手に加筆改ざんしたものです(※ヴォイチェホフスキは、ショパンの直筆原文は一切公表せず、生前に全て処分してしまっています。ショパンの友人でそんな事をしているのは彼だけです。他の友人達は必ず直筆原文を残しています)。


話は変わりますが、最近、あるブログ記事に、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれているのを見つけ、そのあまりに的外れな話に唖然としてしまいました。
しかもそれを書いているのはショパン関連のプロのライターで、更にその記事の根拠となっている話は、何とショパン弾きとして著名なピアニストに取材したものなのです。

ショパンが協奏曲を書くためにどれほど計画的に準備してきたか、そしてそれを師匠のエルスネルがどれほど綿密に順序だてて導いていたか、それについてはすでに説明した通りですが、これは、そういった彼らの努力に対する冒涜とも言えるような話です。

なので、次回は《ホ短調・協奏曲》のピアノ独奏版を紹介しながら、その間違った話に対して是非とも反論しなければならないと思います。

〜次回(ホ短調・協奏曲のピアノ独奏版)へ続く〜

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。



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ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)

2011/12/30 18:24
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)
Chopin : Piano Concerto No.2 in F minor Op.21 (for one piano/Tomoro edition)

第1楽章 マエストーソ by Tomoro




I. Maestoso /Tomoro

第2楽章 ラルゲット by Tomoro



II. Larghetto /Tomoro

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. Allegro vivace /Tomoro

● 作曲年:1829〜30年
● 出版年:1836年(オーケストラ伴奏版)/2003年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
● 献呈者:アンダーソン夫人(イギリス版)


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、ちょっと趣向を変えて、この曲を私トモロー・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ヘ短調・協奏曲のピアノ独奏版)からの続き〜


前回は《ヘ短調・協奏曲》のピアノ独奏版をお聴きいただいた訳ですが、編集者のエキエルによると、あれはショパンが自ら1台ピアノ用に編曲したものだそうです。

しかしながら、お聴きいただいて分かるように、どう考えてもあれは、単に協奏曲のピアノ・パートとオーケストラ・パートを交互に弾いているだけで、その双方による協奏的要素はほとんど再現されていません。
その結果、所々無伴奏状態になっていたり、逆にカラオケ状態になっていたりして、文字通り「間抜け」な曲になってしまっています。
要するに、きちんと完成された作品ではないと言うか、独立したピアノ独奏曲としての体を成していないんですね。

あれはどう考えても、ショパンがオーケストレーションを構想する前の段階の叩き台として書いたものか、もしくは、生徒が将来オーケストラと共演する事を前提に一人で練習できるよう準備したものか、そのどちらかです。

現にショパンはパリ時代に、カール・フィルチと言う13歳で夭折した天才ピアニストをレッスンしていた際、フィルチが《ホ短調・協奏曲》を弾くのに、ショパン自身は2台ピアノ版のセカンド・ピアノで伴奏してやっていたそうです(※そのエピソードはヴィルヘルム・フォン・レンツ著/中野真帆子訳『パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代』に書かれていますので、興味のある方は是非ともご覧下さい)。
と言う事は、フィルチは自宅に帰ってこの曲を一人で練習する際には、オーケストラ・パートをイメージしながら弾く意味でも、このような1台ピアノ用の楽譜があると非常に良い訳です。
でもそれは、あくまでも練習用であって、それそのもを演奏会で披露するためのものではありません。
なぜならそこには、作曲者が協奏曲で意図した協奏的要素が所々抜け落ちているからです。

たとえば本稿ではこれまで、オーケストラを伴うショパン作品のすべてについて、そのピアノ独奏版を紹介してきました。
 1.《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2(独奏版)》
 2.《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13(独奏版)》
 3.《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14(独奏版)》
しかしこのいずれについても、やはり協奏曲の独奏版と同様の事が言えて、私はかねてからその事に疑問なり違和感なりを感じていました。

これらの作品は、その演奏形態ゆえに、ショパン作品の中では最も演奏される頻度が低く、一般の音楽ファンもほとんど耳にする機会がありません。
そんな中、この度のナショナル・エディションでこれらのピアノ独奏版が刊行された事は、そのような状況を打開して一般に広め、その作品の素晴らしさを再認識してもらうための絶好の機会となったはずです。

それなのに、ショパンの自筆資料にこだわってこのような中途半端な独奏版を提供されても、弾く方は、プロもしくはプロを目指しているような人以外はあまり弾きがいを感じないだろうし、聴く方も、これなら本来の協奏版を聴く方がいいと言う事にもなってしまいかねないのではないでしょうか。


そこで私は、そのような不満を払拭すべく、今回このようなピアノ独奏版を独自に編集してみようと思い立った訳なのです。

…と言うと少々大げさに聞こえますが、これは単に、2台ピアノ版のセカンド・ピアノから伴奏部分と協奏部分を抜き出し、それを1台ピアノ版の「間抜け」部分に移植しただけです。
ですから、元々楽譜になかった音を勝手に付け加えるなどの越権行為は一切していません。
とは言うものの、たとえば2台ピアノ版のセカンド・ピアノの伴奏をそのまま左手1本で弾くのは物理的に不可能だったりしますから、そう言った場合は私の判断で抜き出す音を吟味し、右手との兼ね合いなどからオクターブ調整するくらいはしています。

これなら、さほど原曲のイメージを損なう事もなく、協奏曲の独奏版と言うよりは、むしろ独立したピアノ・ソナタとして鑑賞に堪え得るものにもなるのではないでしょうか。


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ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版)

2011/12/29 18:48
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版)
Chopin : Piano Concerto No.2 in F minor Op.21 (for one piano)

第1楽章 マエストーソ by Tomoro




I. Maestoso /Tomoro

第2楽章 ラルゲット by Tomoro



II. Larghetto /Tomoro

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. Allegro vivace /Tomoro

● 作曲年:1829〜30年
● 出版年:1836年(オーケストラ伴奏版)/2003年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
● 献呈者:アンダーソン夫人(イギリス版)


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ヘ短調・協奏曲の2台ピアノ版)からの続き〜


この《ヘ短調・協奏曲》について、ショパンが手紙の中で最初に触れたのは、初めてのウィーン訪問から帰って約3週間後の事でした。
「…(前略)…しかし僕には、おそらく不幸な事かもしれないが、すでに僕自身にとっての理想の人がいて、半年もの間、黙って忠実に仕えてきたのだ;僕はその夢を見ながら、僕の協奏曲に含まれるアダージョを構想し、…(後略)…」
(※『1829年10月3日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

ここに書かれている「アダージョ」が、のちに《ヘ短調・協奏曲》が出版される際に「ラルゲット」にテンポ変更される第2楽章の事です。
しかしながらこの記述は、この手紙の「写し」を取って伝記作家のカラソフスキーに資料提供したヴォイチェホフスキによる加筆改ざんで、当時ショパンはそのような恋などしていなかったと言うのが私の考えです(※それについての詳細は『捏造された初恋物語』で)。
ただし、改ざんされる前の直筆原文には、少なくとも「僕の協奏曲」について何らかのコメントが書かれていたのかもしれず、そこまでは否定できません。

次に「協奏曲」について触れられるのは、それから17日後に書かれた手紙です。
「…(前略)…エルスネルは僕の協奏曲のアダージョを褒めている。彼が言うには、そこには新しい何かがあるのだと。ロンド(※協奏曲の終楽章)については、今はどんな意見も望んでいない。と言うのも、僕自身がまだ満足していないからだ。僕が旅行(※アントニンのラジヴィウ公爵邸への)から戻った頃に完成させられるかどうかは疑問だ。…(後略)…」
(※『1829年10月20日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


次に「協奏曲」について触れられるのは、それから3週間半後に書かれた手紙です。
「僕は、君がキスを送ってくれた、君の一番新しい手紙をアントニンのラジヴィウ邸で受け取った。僕はそこに1週間いたが、その時間がどれほど早く、また楽しく過ぎて行ったか、君は考えられまい。僕は前の郵便馬車で旅から帰って来たが、抜けて来るにはずいぶん苦労したよ。僕自身としては、追い出されるまで滞在できたのだが、僕の仕事が、取り分けまだ終楽章を待ちくたびれている僕の協奏曲が、僕にこのパラダイスを去る事を強制したのだ。…(後略)…」
(※『1829年11月14日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


これ以降、約4ヵ月半に渡る期間に書かれていたはずの手紙は、ヴォイチェホフスキが「写し」を取らずカラソフスキーにも資料提供せず、生前に全て処分してしまったため残っていませんが、ショパンはこの協奏曲を同年のクリスマス前には完成させていた事が分かっています。当時1829年12月23日付のの『ワルシャワ通信』に、以下のような記事が掲載されているからです。
「先週土曜日わが町で、これまでにない美しい催しが開かれた。この催しにはショパンの才能が大いに寄与していた。このわが同胞は外国で絶賛されたものの、祖国ではこれまでのところその才能を十分には披露していない。もちろん慎み深さは才能ある者の持つ美徳であるかもしれないが、このような形で表われるのを殊勝な態度といって手放しで褒めたたえるわけにはいかない。ショパンの才能は祖国のものではないのか? ポーランドはショパンを正しく評価していないというのだろうか? ショパンの作品は疑いもなく天才の所産である。彼の作品の一つである「ピアノ協奏曲 ヘ短調」は、ヨーロッパでも一流の音楽家の作品と肩を並べる出来といってよい。我々はショパンにこれまでもしばしば懇願してきたように、彼自身の栄光やわが国にとって不利な、ポーランドは偉大な才能を生み出せる国だという喜ぶべき結論を打ち消すような消極的な姿勢をやめるよう望みたい。」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より)


更にショパンは、ついに完成した協奏曲を、記念すべきプロ・デビュー公演で初演するに当たって、その本番の2週間前にリハーサルを行なっており、その様子が当時1830年3月4日付の官報に載っています。
「今までその作品についてあまり知られていなかった若き才能にある評論家が気づかせてくれた。ショパンはこれまで卓越したピアノ演奏家としてのみ名をなせていた。だが水曜日、ショパンの別の面を見る機会を得たのである。ショパンは自宅でフル・オーケストラをつけて、すばらしい自作のリハーサルを行い、彼自身がその協奏曲を演奏した。聴衆には専門家も素人もおり、クルピンスキやエルスナーなど音楽家の姿もあった。…(以下略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より)


そしていよいよ本番を向かえた訳ですが、それが好評だったために追加公演も行なわれ、ショパンはその2つの演奏会について、友人宛の手紙にこう書いています。
「…(前略)…最初の演奏会では、ボックス席も特等席も3日前に売り切れになったが、概して、僕が期待していたような印象を与える事はできなかった。第1楽章のアレグロ(これは誰にでも理解されにくい)は、最初のブラボーで報われはしたが、でもこれは、僕が思うに、聴衆が真面目な音楽を理解し、また評価する術を知っているという事を示そうとしたからだ。通ぶった人はどこの国にもたくさんいるものだ。アダージョとロンドは素晴らしい効果をあげて、心からの喝采とブラボーの叫びが続いた。
…(中略)…
クルピンスキはその晩、僕の協奏曲に新しい美を発見したと言った;しかしヴィマンは、人々が僕のアレグロの何が良いと言っているのか未だに分からないと認めていた。
…(中略・追加公演となった2回目の演奏会に触れた後)…
僕は、アダージョがこんなにも多くの人に喜ばれたのを不思議に思っている;僕が聞いたところでは、僕を最も嬉しがらせる意見はこれに関するものばかりだ。…(後略)…」
(※『1830年3月27日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


また、たとえばショパンの没後間もなくリストが著したショパン伝には、以下のような記述が見られます。
「…(前略)…とは言え、古典の規範を追ったショパンの作品のうちでも、あるものはすばらしい威厳を備えた立派な作品であり、そこには驚くべき壮麗な節々も見出される。
その一例として、第二コンチェルトのアダージョを挙げることが出来る。これは、ショパンが好んで度々弾奏した曲目で、彼の極好んだ作品のひとつである。これは、称賛すべき雄渾な特徴をもった作品で、その付属的な装飾は、もっとも素晴らしい出来栄えを示している。そしてその一節は短調に交換し、このために対歌のような効果を現している。作品全体の動きはほとんど完璧に近い。またその表現は、やわらかい情緒に満ち、燦爛たる明暗をもっている。
それは言わば真夏の喜悦と光に満ち溢れた絢爛たる風景を見せている作品で、幸福の渓谷テンビ(註、古代ギリシャのオリンパス山とオッサ山の間にある美しい谷)を背景として、深刻な、人間苦を描いた、慄然たる情景の物語にも似ている。外部の自然が類例もなく華麗な中に、人生の辛酸と償い得ぬ歎きが凄まじい力で迫ってくる。
この喜悦と凄惨の対照を保ちつつ、この作品は全体として統一され、粗野なつじつまの合わない音律を微塵も見せずに、なだらかに光明から陰鬱へと転換してゆくので一層に効果的である。」
(※フランツ・リスト著/蒔澤忠枝訳『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より)


この「アダージョ(ラルゲット)」が特に人気を博したという事実は、のちにショパンを、彼の代名詞ともなるノクターンの創作に向かわせるのに一役買ったであろう事は、想像に難くないのではないでしょうか。

この《ヘ短調・協奏曲》は、公開の演奏会においては、上記のワルシャワでの2回の演奏会で演奏されたきりで、その後ショパン自身によってオーケストラと共演される事はありませんでした。
ワルシャワでの2回の演奏会では、自分のピアノで弾いた初演の時よりも、大きい音の出るウィ−ン製のピアノを借りて弾いた追加公演の時の方がやはり聴衆の反応は熱狂的で、当時のワルシャワの新聞等でもそうのように絶賛されています(※それらの資料はすべて、ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)で読む事が出来るので、興味のある方は是非ご覧下さい)。
しかしながら、リストの証言によると、どうやらショパンは、この曲を公開の演奏会では弾かなかったものの、サロンなどでは、特にこの曲の第2楽章だけを抜粋でよく弾いていたようで、おそらくその際には、ピアノ独奏版か2台ピアノ版、あるいは室内楽版で披露していたのだろうと考えられます。

実際ショパンは、《ホ短調・協奏曲》の方については、パリ時代に公開の演奏会で弾いた他に、弟子のレッスンで2台ピアノ版を弾いていたと言う確かな証言が残っているからです。


〜次回(ヘ短調・協奏曲トモロー・エディション)へ続く〜


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ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(2台ピアノ版)

2011/12/17 20:32
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(2台ピアノ版)
Chopin : Piano Concerto No.2 in F minor Op.21 (for two pianos)

第1楽章 マエストーソ by Tomoro




I. Maestoso /Tomoro

第2楽章 ラルゲット by Tomoro



II. Larghetto /Tomoro

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ by Tomoro



III. Allegro vivace /Tomoro

● 作曲年:1829〜30年
● 出版年:1836年(オーケストラ伴奏版)/2010年(2台ピアノ版)
● 献呈者:デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
● 献呈者:アンダーソン夫人(イギリス版)


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによる2台ピアノ版でお送りいたします。
尚、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに配置してあります。


ショパンは、ピアノ協奏曲を書くに当たって、極めて計画的に準備を進めてきました。

たとえば、ショパンがそれ以前に手掛けたオーケストラを伴う作品を順に見ていくと、
 1.《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》(1827年)
 2.《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13》(1828年)
 3.《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》(1828年)
最初の2作が他の作曲家のテーマを使ってオーケストラ・アレンジの習得を兼ねていたものだとすれば、3作目は自作のテーマでそれを試したものと言う事になります。

また同様に、ショパンが手掛けた多楽章形式(ソナタ形式)の作品を見ていくと、
 1.《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4》(1827〜8年)
 2.《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》(1828〜9年)

これらは全て、ショパンがワルシャワ音楽院に在籍していた3年間に書かれたもので、それはすなわち、ショパンが何のために音楽院に通っていたのかを物語るものです。
つまり、「ピアノ協奏曲」を最終目標に据えて、ショパンがきちんと順を追って作曲の勉強をしていた事を表しています。これはもちろん、音楽院でショパンに作曲を教えていたエルスネル院長の導きによるものです。
しかもそれらの作品が、どれも単なる習作に終わっていないと言うところが、ショパンの類稀な才能を証明しているとも言えましょう。

なぜ「ピアノ協奏曲」を書かなければならなかったのかと言うと、当時のピアニスト兼作曲家がプロ・デビューするに当たっては、それを披露するのが一般的な慣わしだったからです。
当時はもちろんレコードもCDもありませんから、音楽家が作品を発表するには実演するしかありません。それで宣伝しなければ、もちろん楽譜も売れない訳です。
そしてそれを実演する場が演奏会だった訳ですが、当時の演奏会と言うのは、現在とはちょっと事情が違っていました。
元々「演奏会」と言うのは、多くの共演者や様々な芸術的演目が雑多に盛り込まれて行なわれるイベントで、一種のバラエティー・ショーのようなものでした。
ですから、たとえば1人のピアニストが最初から最後までたった1人で独演会を行なうようなリサイタル形式の催し物と言うのは、現在でこそそちらの方が一般的ですが、当時はまだなかったのです。それを最初に始めたのはフランツ・リストで、1839年になるまで待たなければなりません。
ヨーロッパの国々では、「協奏曲」と「演奏会」が同じ単語で語られている事からも分かるように、そのような「演奏会」にあって「協奏曲」は正にその象徴的な演目だったのです。
しかも、当時まだ新しい楽器として進化を続けていたピアノとピアノ音楽の世界においては、「ピアノ協奏曲」と言うのは、ピアニスト兼作曲家がピアニストとしての腕前と作曲家としての総合的な能力を一度に披露するのに打って付けでした。
ですから、当時すでにワルシャワではその両方において右に出る者のいなかったショパンですら、正式にプロとして世に出て行くためには、望む望まずに関わらず「ピアノ協奏曲」を書かねばならなかったのです。

また、そんな時代の流れを反映して、当時のピアノ協奏曲は、古典派時代に比べてずっとピアニスト寄りになっていました。したがって協奏的要素(たとえばピアノがオーケストラの伴奏に回ったり、両者が掛け合いをするなど)が減って、オーケストラはほとんどピアノのための伴奏に終始する傾向が強くなります。文字通りほとんど「カラオケ」のようなものです。
ショパンは、たとえばフンメルやカルクブレンナーに代表されるような、そういった古典派とロマン派の間に位置する当時の先輩ピアニスト兼作曲家達の作品をお手本にしていました。
ですから、ショパンのピアノ協奏曲も彼らと同じような傾向にあり、ピアノの優位性に対してオーケストラは極めて控えめになっています。
ところが、そのために、そう言った当時の音楽事情が忘れ去られた後世においては、ショパンはオーケストラ・アレンジが不得手であると言った評判が定説化してしまいます。
それだけならまだしも、その欠点を補おうとして、勝手にオーケストラ・パートを充実させた編曲版までもがいくつも登場してしまうと言う始末です。

確かにショパンはオーケストラ・アレンジが得意だったとは言えないのかもしれませんが、しかしこれは得意不得意の問題と言うよりも、元々ショパンの関心がピアノ独奏曲の方により強く傾いていたと考えた方が正しいように思われます。
ショパンが、心身ともに非常な労力を要する演奏会を好んでいなかったのは事実ですし、また、ピアノの音が小さい事を欠点として常に指摘されるため、オーケストラとの競演にも積極的ではありませんでした。
だからこそ、パリ移住後に名声を確立し、作曲とレッスンだけで生計が立てられるようになってからは、苦手な演奏会をしなくても済むようになったので、そのためほとんど演奏活動をしなくなります。
必然的にオーケストラを伴う作品を書く必要もなくなり、その結果、自ら自分の本分とみなしたピアノ独奏曲の作曲のみに専念するようになるのです。


さて、ショパンが書いた2つの協奏曲のうち、最初に手掛けられたのが本作の《ヘ短調》になります。これは現在《第2番》となってはいますが、それは作曲順と出版順が逆になったためです。

そうなった理由については、ショパンの関係者の証言で、「最初の出版に際して、ヘ短調のオーケストラ総譜が見当たらなかったので、かわりにホ短調を送ったため」(※下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』より)とショパンが語ったと言うものが伝えられています。しかしこのような話には全く現実味がありません。
まず、協奏曲のような大掛かりな作品の楽譜が「見当たらない」なんて話にも現実味がありませんし、そのかわりに別のを送ったなんて話にも全く現実味がありません。
ショパンが《ホ短調》の方を先に出版したのは、当時のショパンがあくまでもそちらの方を自信作とみなしていたからで、現にパリのデビュー公演では《ホ短調》の方を演奏し、それが好評を得て、それで出版にこぎつけたからです。ですから、そうして出版された《ホ短調》の楽譜には、作品の紹介文としてその由がきちんと書き添えられています。
そのような状況なのに、当時まだパリでは無名に近かったショパンが、まだ聴衆の前で一度も披露していない《ヘ短調》の方を先に出版しようと考えていたはずがない訳です。

《ヘ短調》の方が出版されるのは《ホ短調》の出版から3年後の事ですから、作曲されてから早6年もの年月が経っています。
ただし、こちらの《ヘ短調》に関しては、結局パリでは一度も演奏会では披露されていません。しかしながら、当時のショパンはすでに作曲家としての名声も確立し、楽譜も売れていましたから、そのような事はもはや問題にはならなかったのです。


《ヘ短調・協奏曲》が演奏会で作曲者自身によってオーケストラを伴って演奏されたのは、結局ワルシャワ時代におけるプロ・デビュー公演での初演と、その追加公演における2回だけです(※パリ時代には、第2楽章だけが抜粋で披露された事があります)。
その直後から《ホ短調》が着手され、それがワルシャワでの告別演奏会で初演されて以降は、ショパンは《ホ短調》の方を自分の代表作として引っさげ、外国へと旅立ちます。
ただし、ウィーンに到着した当初は、ショパンはまだどちらの協奏曲を披露すべきかについて決めかねていました。
確かに、名人芸的な難易度も含めて、全体的な完成度としては新作の《ホ短調》の方が上と言うのが一般的な評価のようですが、ただし、その独創性や、作品の中にちりばめられた個々の旋律の持つ魅力と言う点では、むしろ最初の《ヘ短調》の方が上なのではないかと私は考えています。

リストはこの《ヘ短調・協奏曲》について、「この作品には新しい詩的な感情が、多くの新しい形式で表現されている」(※属 啓成著『ショパン 作品篇』より)と語ったそうです。

〜次回(ヘ短調・協奏曲のピアノ独奏版)へ続く〜


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ショパン〈作品篇〉
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