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zoom RSS ショパン(?):フルートとピアノのための「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調(遺作)

<<   作成日時 : 2013/06/17 05:11   >>

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♪今日のBGM♪

ショパン作曲(?):フルートとピアノのための「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調(遺作)


● 作曲年:1825〜1830年頃?
● 出版年:1959年
● 献呈者:ユゼフ・チホツキ(?)


 【ジャンル解説】
ピアノの詩人と謳われるショパンは、その作品のほとんどがピアノ独奏曲で、室内楽曲はこれを含めてもたったの4曲しか書いていません。

  1. ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8
  2. チェロとピアノのための序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3
  3. チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲 ホ長調
  4. チェロ・ソナタ ト短調 作品65

ショパンがピアノ以外に注目していた楽器がチェロだったと言うのがよく分かります。


 【作品解説】
予定では、今回は《12の練習曲 作品10》のシリーズでリストとショパンの幼少期について書くつもりでいたのですが、その参考文献として注文した洋書が待てど暮らせど一向に届かず、それで書くに書けずに更新が滞ってしまっています。

そうこうしているうちに、《「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲》の記事のコメント欄でご質問を頂きましたので、急遽それをテーマに記事を書く事にしました。

今回のテーマは、「偽作の疑いがかけられているショパン作品」についてです。
この問題について考える時、もはや資料的根拠を示してその真偽を探るのは不可能です。ですから、あくまでも主観的な感想を述べるに留まらざるを得ないので、言葉は慎重に選ばなくてはいけないでしょうね。


まず、《シンデレラによる変奏曲》について。
この作品の偽作説については当ブログで過去に何度か触れており、私自身も偽作と考えている由を書いていたのですが、今回はその根拠についてもう少し深く掘り下げてみようと思います。

この曲を考える上で私が問題視するのは、やはりピアノ・パートなんですね。
何故なら、それがショパン作品かどうかが問題な訳ですから、そうすると、ピアノ・パートについて検証する以外に、ショパンとその作品をつなぐ糸は何も考えられないからです。
「ピアノの詩人」と謳われるショパンは、その全作品において、ピアノを伴わない曲は無伴奏で書かれた歌曲《マズル・どんな花》のたった一曲だけなのです。

この変奏曲については、ショパンの全曲解説を謳った書物でも全く触れられていない事が多いのですが、たとえば下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』では、次のように解説されています。
「この曲は、ショパンの友人であったヨゼフ・ノヴァコフスキが所有していたものが巡って今世紀になって世に出た作品で、成立過程はよく分かっていない。原典になっている、以前は自筆譜と考えられていたそのノヴァコフスキ所有の筆写譜は、フルートと別れて書かれているピアノ・パートが「テーマ、第1、3、4変奏用」と、「第2変奏用」の二つしかなく、あまりにも単純な伴奏で、しかも変奏時、ピアノがフルートと和声上あわない箇所が生まれることなどから、このピアノ・パートないし、この曲自体の真実性を疑問視する意見もある。
また、主要のテーマはロッシーニのオペラ「シンデレラ」中のアリア、“Non più mesta”(もう悲しくなく)からであるというのが定説だが、それも疑わしい。と言うのは、この旋律は、ロッシーニが自身のオペラ「セヴィリアの理髪師」から代作したもので、ショパンはセヴィリアの理髪師を聴いたことを、友人のヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙に1825年10月30日付で書いており、それはシンデレラを聴く以前だったと考えられるからである。」
(※下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』(ショパン)より)


ここに書かれているユゼフ・ノヴァコフスキ(Józef Nowakowski 1800−1865)と言うのは、単なる友人ではなく、彼もまたポーランドの作曲家兼ピアニストであり、1821年から26年までワルシャワ音楽院に在籍し、ショパン同様エルスネルとヴェルフェルの下で学びました。
ショパンの入学が1826年からですから、この両者はちょうど入れ替わる形で音楽院に在籍していた事になります。つまりショパンにとって彼は兄弟子になる訳です。

また、この曲を個人献呈されたと考えられているユゼフ・チホツキについては、ショパンは友人に宛てた手紙の中で次のように書いています。
「昨日、チホツキを訪問した。例の肥えた男で、彼の命名日のお祝い会があった。ピアノ、クラリネット、ファゴット、ホルン、フルートと共演するシュポーアの五重奏曲を演奏した。非常に美しい曲だ。しかし、指の動かし方が大変だ。ピアノ曲として全てのこと(技)を意図的に、これ見よがしに盛り込んだ作曲だ。 耐え難いほどに難しく、指を持って行く場所が時々分からなくなるほどだ。」
(※『1830年9月18日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

おそらく、この中でフルートを吹いているのがチホツキなのだろうか?とも思われるのですが、だとすれば、少なくとも彼らはこのような難曲を共演するようなレベルの演奏家仲間だった事になります。ちなみに、ルイ・シュポーア(Louis Spohr 1784−1859)の《ピアノ五重奏曲 ニ長調 作品130》とは、こんな曲です(↓)



そうなると尚の事、この変奏曲における「ショパンのピアノ・パート」の低レベル振りには違和感を拭えない事になります。

それに、チホツキの名がショパンの手紙に出てくるのはこれっきりで、この書かれ方から見ても、作品を個人献呈するほど親密だったとも思えません。
逆に、仮にショパンがこの曲をチホツキのために書いたのだとしたら、作曲年は彼らの交流があったこの1830年頃(※当時21歳)だと言う事になります。
その頃には、ショパンは既に、変奏曲では《ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲》(1826年)、《4手のための変奏曲》(1826年)、《「お手をどうぞ」による変奏曲》(1827年)を書いており、さらに室内楽では《ピアノ三重奏曲》(1829年)を書いています。
その後に、このような超古典的で何一つ独創性の盛り込まれていない、しかも初心者的なピアノ・パートの変奏曲を書くでしょうか?

ショパンが《変奏曲》と銘打って書いた作品には、必ず、初期のショパンらしい序奏と終結部があります。
逆に《変奏曲》と銘打たれていない《パガニーニの思い出》と《子守唄》は、それとは完全に区別されるべきものだと考えています。なぜならこの2曲は、あくまでもピアノ独奏曲であり、更に、左手の伴奏をあえて単純に繰り返す事が重要な意味を持つよう意図して書かれた作品だからです。そうする事によって、右手の変奏を際立たせると共に、曲の終わりの方で初めて見せる和声上の変化が絶大な効果をもたらすように作られているのです。
しかしながら、《シンデレラ》の伴奏が単純である事には、そのような音楽的意図が何もありません。本当にただの伴奏でしかないんです。

また、《ショパンの室内楽作品》として見ても違和感があります。
何故なら、多楽章形式(=ソナタ形式)の《チェロ・ソナタ》と《ピアノ三重奏曲》は別として、《チェロとピアノのための序奏と華麗なるポロネーズ》《チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲》にも、やはり「ショパンの変奏曲」と同様の序奏と終結部があるからです。
つまり《シンデレラ》には、「ショパンの室内楽」、ないしは「ショパンの変奏曲」に必ずあるはずの特徴が何もないんですね。
確かに一般的な意味での《変奏曲》としては、本来の在り方として奇異ではありません。でも、これはあくまでもショパンの作品か否かが問題なのですから、そのショパンの作品の慣例からすれば、これはやはり私には奇異に映ってしまうのです。

また、ショパンが書いた室内楽は、いずれもその成立過程がはっきりしています。
《ピアノ三重奏曲》はワルシャワ音楽院の卒業課題として書かされたものだし、《序奏と華麗なるポロネーズ》は玄人はだしのアマチュア・チェリストでもあるラジヴィウ公爵とその娘のワンダ姫が父娘で共演を楽しめるように書いてあげたものだし、そして《悪魔のロベール》は出版者から依頼され、それを友人でチェリストのフランコムとの親交を温めるために共作されたものです。
つまり、どれ一つとしてショパンが一人で自発的に書いたものではありません。
いずれも、誰かしらために書いたり書かされたりしたものばかりです。要するに、そんな事でもない限り、ショパンは室内楽の作曲には興味が持てなかったと言う事なんですね。
だとすれば、この《シンデレラによる変奏曲》も、仮にショパンがそれを書いたのであれば、必ず何かしら他者が絡んだ成立過程があったはずなんです。
その他者がチホツキだとすると、先述したように、その作曲時期と作風は、明らかにショパンの作曲年表の中では異質なまでに浮きまくっています。

ショパンが友人のために室内楽を書き、あるいは友人がショパンにそれを依頼すると言う事は、すなわち両者が共演を楽しむ事が目的で曲が書かれると言うことです。
だとすれば、「ショパンの室内楽」に限っては、常に共演楽器が対等の立場で扱われ、その主従関係がはっきり分けられてしまうような作品が書かれる事は考えられない事になります。つまり、完全にフルートが主役でピアノが伴奏のみに徹する《シンデレラによる変奏曲》のような作品が、ショパンの手によって書かれるはずがないと言う事なんです。
たとえば、仮に私がフルート奏者で、友人であるショパンが私のためにこの曲を書いてくれて、一緒に演奏を楽しむ事になったとしたら、私は間違いなく彼にこう言うでしょう…「なあフレデリックよ、その幼稚園レベルのピアノ伴奏に徹するのだけはやめてくれないか? そんなんじゃ、せっかく君の曲を君と共演する意味が何もないじゃないか。君だって、自分で弾いてて面白くも何ともないだろ? いつもチェリストの友人達とやるみたいにド派手にしてくれよ。ナンでオレん時だけそんな地味なんだよ!」と…。


この曲をYouTubeで検索してみると、プロアマを問わずたくさんの動画がアップされているのに驚きます。ところが、それ以上に驚いたのは、伴奏が必ずしもピアノとは限っていない事なんですね。ハープやギターを伴奏にしている人がかなりたくさんいる事に気付きます。そしてそれらを聴いてみると、全く何の違和感もない訳です。要するにこの曲の伴奏は、最初からピアノでなければならないと言う必然性なり音楽的根拠なりが何にもないと言う事なんです。別にピアノじゃなくてもいい、それはすなわち、別にショパンじゃなくてもいいと言っているに等しい訳で、果たしてそんなピアノをショパンが書き、そして演奏するだろうか?と思ってしまう訳です。

ハープ伴奏の例(↓)

ギター伴奏の例(↓)




私が思うに、この曲はおそらくノヴァコフスキ自身が書いた遺作で、彼がチホツキに個人献呈する目的で書いたものが、その彼らがショパンと共通の友人だったために、その交遊録の絡みから、いつの間にかショパン作品と誤認されて巡り巡ってしまっただけなのではないか?とも思うのです(あるいは、彼らがショパンの名声を自身の売名行為のために利用しようとしたのではないか?…などとは、あまり考えたくはないですけど…)。

ただ、誤解して欲しくないのは、私はこの曲はショパンが書いたものではないと言っているだけで、作品そのものを否定している訳ではありません。
変奏曲としての出来はさて置くとしても、この原曲であるロッシーニの旋律はとても好きで、仮にこれが誰の書いた変奏曲であるにせよ、これだけ多くのフルート奏者に取り上げられている理由もよく分かります。



その他の「偽作の疑いがかけられている曲」について。

《パガニーニの思い出》《コントルダンス》《ポロネーズ 変ト長調》(←これは第16番の事ですか?)に偽作説があるなんて、私は知りませんでした。勉強不足で申し訳ありません。

《パガニーニの思い出》については、これは元々他人の曲をテーマに用いた変奏(編曲)作品ではありますが、やはり晩年の《子守唄》に連なる要素を持った初期の作品と捉えられるので、私は今まで偽作と感じた事はありませんでした。

《コントルダンス》《ポロネーズ 第16番 変ト長調》については、どちらも決して名曲とは言えないのかもしれないけれども、明らかに音楽的霊感が感じられ、聴いた後にその旋律が耳に残ります。つまり、少なくとも才能のない人間には決して生み落とせない類の作品である事は間違いありません。なので、これらがショパン作品である事を疑った事もありません。

《マズルカ ニ長調 KK Anh.Ia-1》
この曲については、ドレミ楽譜出版社の「ショパン・ピアノ名曲辞典」に「疑わしい作品」と言う項目があり、その資料として筆写譜の冒頭の7小節が掲載されていて、現在私はそれしか情報を持っていません。
なので何とも言えませんが、この箇所だけを聴いた限りでは何の音楽的霊感も感じられず、旋律も耳に残りません。これがショパンの曲であろうとなかろうと、私にはちょっと興味が湧いてこない曲です…。

《憂うつなワルツ 嬰ヘ短調》
これは、上記の「疑わしい作品」の解説によると、筆写譜の表題に「Valse mélancolique Chopin(??)」と書かれていたそうです。もうその時点でショパンの作品じゃないと分かります。ショパンがそのような安易な表題を書くはずがないからです。
当ブログの《ワルツ 第3番 イ短調 作品34-2》の記事でも書きましたが、ショパンがレンツに語ったところでは、彼は《ワルツ 第3番》を“これは物憂げなワルツです。”と説明しはしましたが、決してそのような表題は付けませんでした。
この二つの“ワルツ・メランコリック”を聴き比べれば歴然としているように、偽作の方は、単に《ワルツ 第3番》やその他のショパン作品を模倣して雰囲気だけなぞった曲である事が一目瞭然です(↓)

インスピレーションを感じさせるような旋律は一つも出てきませんし、展開にもメリハリがなく全体的にのっぺりしています。これをどうしてショパンが書いたと信じられるでしょうか? この程度の曲であれば、ちょっと作曲を勉強した事のある者なら誰にでも書けてしまいます。

《忘れられたノクターン(Nocturne Oubliée) 嬰ハ短調 KK Anh.Ia-6》
これも同じです。これはショパンのノクターンではなく、ジョン・フィールドのノクターンだと言われれば、誰もが信じて疑わないのではないでしょうか?
短調で書かれたフィールドのノクターンは三つあり、それらはこんな感じです(↓)





どうでしょう? これらだって十分にショパンっぽいと言えばショパンっぽいですよね? 実際はショパンがこれらから影響されてノクターンを書き始めたのですが、たとえばこれらフィールドのノクターンの中に《忘れられたノクターン 嬰ハ短調》が含まれていたとしても、誰も何も違和感は覚えないのではないでしょうか(↓)

これら全てに共通しているのは、音楽構成上の平坦さです。つまり全体的にのっぺりしていて、ショパン作品にあるような明確なメリハリがないんです。次の展開を期待させるような高揚感もない。だから、正直なところ聴いていて途中で飽きてきてしまうんですね。とにかく、第一主題が何の変奏も転調も加えられる事なくそのまま4回も繰り返されるなんて…。ワルツやマズルカのような舞踏作品ならまだしも、ショパンのノクターンでそのような楽曲構成はありえません。つまり、凡庸な第一主題だから想像力も掻き立てられず、だから音も膨らませられないし、作曲者自身にそのような編曲能力も備わっていないと言う事なんですね。
ちなみにこの曲は、上記の「疑わしい作品」の解説によると、自筆譜や筆写譜ももちろん不明で、「パデレフスキ版の校訂者であるL.ブロナルスキは、この曲をかなりショパンの書式に似てはいるものの、疑わしいとしている」そうです。私もそう思います。

要するに、単に雰囲気だけをなぞったBGM的な曲で、だからそれなりに心地よくはあるのだけれども、それじゃあ聴き終わった後に耳に残る旋律があったかと言うと…、ないんですよね…。これがショパンの曲なら、一曲を通して印象的なフレーズが一つもなかったなんて事はまずありません。彼はインスピレーション(霊感)によって作曲するタイプなので、それがないと曲が書けないし書こうとも思わないからです。
ショパンが、ほとんどピアノ独奏用の小品しか書かないのに寡作なのは、つまりそう言う事だからです。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
わざわざ記事にしていただき、ありがとうございます。
シンデレラ変奏曲の作曲について1829年説があるのは、その時期の書簡で触れられたチホツキとの交流の故なんですね。
この曲の筆写譜のピアノパートが第2変奏以外使い回し式になっていてフルートパートと所々音が合わないという件、これは写譜者のいい加減さでしょう。仮にもフルートパートをあれだけ作曲できる人なら、そんな間違いは犯さない。写譜の労力を軽減するためにずさんな判断をしたのだと思います。こういうことが絡んでくると、なおのこと真偽の議論が困難になります。
既存のショパンの変奏曲との構成(序奏とコーダの有無)の相違は、私にとっては依然問題ではありませんが(既存のものの形を規範としてそれにこだわり過ぎるのは危険)、この変奏曲についてはひとまず置きます。続
nao
2013/06/17 21:48
コントルダンスはコビラニスカが疑わしいとしているために、作品目録で KK Anh.に分類されています(ドレミ社の作品便覧参照)。変ト長調ポロネーズ(No.16)は、ニークスが「ショパンの筆跡以外には彼の作品と証明するものはない」と評しているために、安易にそれに同調する解説も見られます(全音楽譜ポロネーズ集等)が、この曲こそ初期の作風を脱して後年のポロネーズに通ずる壮麗さ、威厳、スケールの大きさ、深刻さ等を初めて発揮した、いわゆる「ショパンのポロネーズ」らしい本格的な作品のはしりなのに、「あまりにショパンらしくない作品とも思われる」(前掲全音楽譜解説)とは全く気が知れません。《パガニーニの思い出》の偽作説は、青澤唯夫著『ショパン その全作品』によれば、最初の序奏への疑いが主のようです。
ニ長調マズレクは『関孝弘/知られざるショパン』のCDで聴くことができ(Youtubeに丸々アップされてますね)、同氏の校訂による『ショパン遺作集』(全音楽譜)に楽譜も収められています。はじめの6小節だけでも、ショパンが10歳とは言え低音域にこんなに密集した和音を置くか?(それは最初の2つのポロネーズと比較してもわかる)と思うし、3拍子の伴奏もこうは書かないだろうと思います。
嬰種短調のワルツとノクターンについては機会を改めます。続
nao
2013/06/17 22:17
ショパンの歌曲は、現存の19曲全て真作のようですが、ショパンが作曲したという事実を抜きにすると、とてもショパンの作とは思えない出来のものが殆どです。《春》や《魔力》をはじめ、単純で取るに足らないものが多い上に、単純さからやや脱した曲作りのものはなお一層和声や曲の運びにいつものショパンにはあり得ない拙さが感じられ(《いとしい人》の後半クレッシェンドの和声、《戦士》のピアノ書法、《許婚者》や《舞い落ちる木の葉》の生な半音階書法など)、単純というより凡庸で稚拙にさえ思えます。私も長いことショパンの音楽を愛して聴いていますが、歌曲だけは未だにどの曲がどんな旋律だったか憶えていません(単純なのに記憶に残らない)。ピアノ曲でない、歌が入ってるというだけで、こうまで才能の発露が妨げられるものかと不可解に思います。由緒がなければショパンの歌曲は偽作レベルのものがほとんどです。
あと、本領のピアノ曲では《ギャロップ・マルキ》と《2つのブーレ》という存在があります。ショパン7,8歳の頃の作というならわかりますが、実に最晩年のもので偽作の疑いもないようです。ギャロップの方はショパンの「内輪の冗談音楽」であり、そういうレベルで理解できますが、ブーレの方はもはや作品でも民謡の編曲ですらありません(ショパンが五線紙に音符を書いたら何でも作品になるというものでもありません。世のショパンマニアたちがこういうものをまともに受け止め過ぎて作品表に載せたり全集に収録しているからおかしなことになっています)。しかし、ショパンはさきの《春》のピアノパートをそのまま独立させてピアノピースとして複数献呈したりしています。対外的にも一応作品と認めているわけで、ショパンの創作の芸術性の尺度からは考えられません。これらはショパンの音楽の小品でさえ備えている格の高さを持っていません。続
nao
2013/06/17 22:59
以上のような作例があるので、シンデレラ変奏曲のピアノパートの「レベルの低さ」も、それを以て一概に偽作とは断定できないと思っています。歌手もショパンと歌曲で共演するのにあのように単調な聴き映えのしない伴奏を望んだものかどうか(ただ、実演に際してショパンがアドリブを施したことは考えられることで、それはシンデレラ変奏曲にも言えます。出版の意図がないものだけに、楽譜には骨格程度のものしか書いてないのかもしれません)
nao
2013/06/17 23:07
nao様へ。
資料的根拠が示せない以上、結局は聴く人それぞれが主観的感想を述べ合うことぐらいしかできないようですね。
いつも興味深いお話をしていただいて、本当に有難うございます。とても考えさせられますし、参考になります。

蛇足ながら、歌曲について少しだけ述べさせていただきますと、歌曲を書くというのは、器楽曲を書くのとは根本的に違うんですね。歌曲だけは特別なんです。同じ作曲でも、もう作業工程からして違う訳です。
とにかく、歌曲はまず最初に「歌詞ありき」なので、作曲するに当たってやたら制約が多いんです。
たとえば、まず詩の内容から曲のイメージが制約される。
字数や言葉のリズムや音節や文節からフレーズが制約される。
歌曲だから音域が制約される…等々…。
ショパンのようにインスピレーションによって作曲するタイプの作曲家は、最初にこれだけ制約を受けてしまうと、自由な発想で旋律を紡ぎだす事が非常に難しくなってしまうのです。
しかもショパンは、標題音楽を嫌って絶対音楽を志向していましたから、尚更です。歌曲と言うのは、言うなれば歌詞付きの標題音楽ですからね。
彼がオペラを書かなかった本当の理由は正にこれなんです。書きたくても書けなかったんですよ。ピアノによる器楽曲を書くようには、高レベルの作品が生み出せない事が最初から分かっていたからです。
それに対してピアノ曲と言うのは、「制約」と言う意味では、正に歌曲とは対極の位置にあるジャンルと言えるでしょう。これほど一人で何でもできてしまう楽器は他にないのですから。
だからこそ、ショパンの霊感の泉をあれほどまでに淀みなく汲み出せた訳です。
お恥ずかしながら、私も一応作曲家の端くれでございますので、これはあくまでも経験上の意見として…。
トモロー
2013/06/19 03:40
シューベルトやシューマンが溢れ出る自由な霊感で歌曲を得意としたのに対して、ショパンはそれ故に歌曲の作曲が不得手だったと…。もともと歌が嫌いならわかりますが、あれほどオペラ好きなのに…やっぱり不思議です。素人でも作曲しようとすれば大抵歌を作ろうとするし(なかなかインスト作ろうとは思わない)、歌の創作は制限が多いと言えばそうかも知れないけれど、器楽曲よりももっと本然的というか自然に取り組めるようにも思えるんですけどね(そういう私は本然的に歌が苦手で、ピアノの作曲のまねごとばかりしてましたから、自分のレベルに落とせばわかる気もしますが)。

さて、フィールドのノクターンも聴けたので、疑問作のワルツとノクターンについて私見を書きます。続
nao
2013/06/21 07:20
その2曲のことは、私もドレミ社の便覧で初めて知り、その譜例を見る限りで私も「低レベルの偽作」だと思っていましたが、最近になって曲の全貌を知ることができるようになり、楽譜を見ながら聴いてみると、譜例の印象よりははるかにいい感じの曲だと思いました。
嬰ヘ短調のワルツについては、私はもはや偽作の疑いを持っていません。まず「ワルツ・メランコリック」という表題は写譜者の書き込みであってショパンの意志とは無関係のものと思うので問題外です(「Chopin(??)」とも書いてあるくらいだし)。楽譜はつい先日初めてYou tubeで見ました。それまではCDのみで聴いていたわけですが、以前に想像していたよりも譜づらがずっと簡素で、決して音の多くないシンプルな書法が数段上の効果を上げるのに成功していると思います。同主長調の中間部から主部への戻り方に巧みな工夫があり、コーダのポリフォニーも美しく情緒を深めるもので、私見ではショパンの書法・感性として文句がありません。「似せようとした」ような邪念も感じられません。続
nao
2013/06/21 07:43
(忘れられた)ノクターンの方は、楽譜を見ると中間部が聴感とは合わないようなリズムの書き方になっていて、その凝った書法はあたかもシューマンのようです。それと主部の装飾がやや大仰でわざとらしく感じられるので、私も偽作ではないかと思います。ただし、聴けば聴くほど迷いが生じてくる良い出来です(全体にフィールドよりはるかにロマン的な発想と様式と思います)。
主部再現でも旋律に何も変化が施されないのは、中間部の終わりでD.C.を指示して主部終わりでFineにする略式記譜を自筆譜でしていたからだろうと思いますが、そうすると今度は「舞曲作品でやるような記譜をノクターンでショパンがやるか?」という疑問がわいてきます。主部であれだけ装飾を作り込んであるのに、再現ではD.C.で何も変化させないというのは、確かに「ショパンのノクターン」らしくない意図ですね。

ところで、1820年作とされるニ長調のマズルカ、これがもし真作であれば、マズルだけで一曲のマズルカを創作しているものなので、クヤヴィアクやオベレク等をも統合してマズルカを作る後年のショパンの作法(早くも1824年頃に確立される)の前段階を示す唯一の作ということになって、その点で興味あるものと言えると思います。
nao
2013/06/21 08:05
nao様へ。
歌曲が得意な作曲家というのは、詩(言葉)からイメージを膨らませて音楽的霊感を導き出せるタイプで、ショパンはそうではなく、無の状態から自由な発想でインスピレーションを得ていたので、最初に詩があるとそれが足枷になりやすい…と言う事です。当時と今とでは音楽事情も異なるので、「曲が先で詩が後」と言う作業工程も当たり前になっていますが、たとえば現代のいわゆるシンガー=ソングライターと呼ばれる人達でも、「詩が先か曲が先か」で別れますし(もちろん、中には同時だったりケース・バイ・ケースだと言う人もいます)、私自身もそうなので、歌を作る時はほぼ必ず後から詩を付けます。詩が最初にあると、どうしてもありきたりの旋律しか思い浮かびません(たとえば、最初に演歌の歌詞を渡されたら、その手の音楽しか頭に浮かばないでしょう? これは「曲が先」派に共通の意見で、まあ私の場合、どっちみち先人達の足元にも及びませんけどね…)。

偽作説のある作品に関しては、やはり私も主観的な感想しか言えませんね…。ただ不思議な事に、ショパンの曲だと思えばいい曲に思えてきたり、そうでないと駄作にしか聴こえなかったり…逆にいい曲だと思えばショパン作品だと思いたいし、そうでないとそうは思いたくなかったり…なんて、権威主義的な先入観に左右されそうな自分が怖いと思う事は時々ありますね。
トモロー
2013/06/21 17:22
権威主義的…というより、人の心理としてそれが普通だと思います。
ただ、既存の周知の曲ならベートーヴェンやシューマンの様式をショパンの様式と取り違えることはまずないわけで、どこかで(好き嫌いや思い込み等で)判断に狂いが生じ、そこから牽強付会へ盲目的に突き進むことはとても怖いですね。

ショパンの歌曲に関しては、曲を知らなければ私にはそれらがショパンのものとは全くわからないと思います。ショパンの他の多くの作品の様式とは別に「ショパンの歌曲の様式」をよく知らないと判別できないもののようで、それを熟知できるほど興味を持って聴くことができないので。
nao
2013/06/22 21:11

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