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ショパン:練習曲 第6番 変ホ短調 作品10-6

2013/05/21 15:42
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第6番 変ホ短調 作品10-6 by Tomoro



Chopin : Étude No.6 in E♭ minor Op.10-6 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第6番 変ホ短調》は、《12の練習曲 作品10》の第6曲目です。
ノクターンを思わせるようなメランコリックな曲ですが、主旋律を奏でる高音部と、絶えず8分音符が動く内声部と、低音部の3部からなる、多声部のための練習曲です。


さて、今回からはシリーズで、この《12の練習曲 作品10》を献呈されたリストについて、ショパンとの比較を交えながら書いてみたいと思います。


リストの国籍については色々と言われてはいますが、本人ははっきり自分をハンガリー人だと言っています。
当時のハンガリーはハプスブルグ家の支配下にあり、かつてはオスマントルコなどに分割支配されていた事もありますから、ショパンの祖国ポーランドがロシア、オーストリア、プロイセンに分割支配されていたのと、歴史的に似通ったところがあります。
音楽的な意味でも、彼ら以前にはまだ両国からは世界的な音楽家が輩出されていなかったので、共に発展途上国だったという点でも共通しています。

リストは、ハンガリーの西端に位置するドボルヤーン(現在のオーストリア領ライディング)と言う寒村に、一人っ子として生まれ育ちました。
平民出身で片田舎に生まれたと言う点ではショパンと同じですが、ショパンが姉一人妹二人の四人兄弟(姉弟?兄妹?)だったのとは対照的ですね。
ドボルヤーンは当時、ハンガリーの大貴族エステルハージ公爵の所領で、エステルハージ家は、ハイドンのパトロンとしても知られる非常に音楽に造詣の深い家系でした。

リストの曾祖父セバスチャンはドイツ系移民の小作人でしたが、祖父ゲオルクは学校の教師などをしながらピアノやヴァイオリンなども演奏していたそうです。
父アダムはエステルハージ家に仕える役人で、かつてハイドンが楽長を勤めていた宮廷楽団でチェロ奏者を勤めていたと云われており、そうするとアダムは、ハイドンの後任であるフンメル(モーツァルトの弟子)の下で演奏していた事になるそうです。アダムはアマチュアながらも、優れた腕前を持っていたと云われています。
ショパン家も、父ニコラがフランスからの移民で、祖父の代にはぶどう園も営んでいたので、その辺の家系的事情は似通っています。ただし、ニコラは単なるフランス語の教師で、楽器演奏には精通していませんでしたから(※フルートやヴァイオリンが巧かったというのは後世の作り話です。その詳細についてはこちらで)、その意味では、リストの方は音楽家になるべくしてなったような、そんな環境に生まれたと言ってもいいでしょう。

ちなみにリストが生まれた時、リスト家はまだ、その綴りを「List」としていた事が彼の出生証書から分かっています。
これは、彼らの先祖がドイツ人だったからなのですが、しかしそのままだと「リシュト」と発音されてしまう事から、ハンガリー的に「Liszt」と綴るようにしたのだそうです。
この点はショパン家とは逆ですね。ショパンの場合、「Chopin」と綴ってそれを「ショパン」と発音するのは、それが典型的なフランス名であるからなのですが、ポーランドでは、そのままだと「ショペン」(あるいは「ホペン」)と発音される事から、しばしばポーランド的に「Szopen」と綴られたりする事があるのです。しかし、当の本人達がその綴りを用いようとした事はただの一度もありません。

リストの両親は共にドイツ語を話し、当時ハプスブルグ家がハンガリーのドイツ化を推し進めていた事から、学校教育もドイツ語で行なわれていました。そのためリストは、ドイツ語しか話せないままハンガリー時代の少年期を過ごしたのです。
しかしながら、当時のハンガリーには移民が多く、純粋なハンガリー人は全人口の半分以下でしかありませんでしたから、ハンガリー人のリストがハンガリー語を話せなかったとしても、それは別に珍しい事でも何でもありませんでした。そのような例は、当時においては何処の国でもよくある事なのです。
したがって、それをもってリストがハンガリー人である事に疑問を呈するのは、その国の歴史的事情についての理解が不足しているからなのかもしれません。


続く…

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ショパン:練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5「黒鍵」

2013/05/15 13:03
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5 「黒鍵」 by Tomoro



Chopin : Étude No.5 in G♭ major Op.10-5 /Tomoro

● 作曲年:1833年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第5番 変ト長調》は、《12の練習曲 作品10》の第5曲目です。
ピアノの黒い鍵盤ばかりを使うため、一般に「黒鍵のエチュード」と呼ばれ親しまれています。


ショパンはこの曲について、友人に宛てた手紙で次のようにコメントしたとされているのですが…
「…(略)…ヴィーク(※クララ。後のシューマン夫人)は僕のエチュードを巧く弾いたかい? どうして彼女は他にもっと良いものを選ばなかったのだろう――それが黒鍵のためのものだと知らない人には、少しも面白くないだろうに! 黙って座っていた方がまだ良かった。…(略)…」
(※1839年4月25日付『マルセイユのショパンからパリのユリアン・フォンタナ宛の手紙』より)

…これ、本当にショパンがこんな事を書いていたのでしょうか? 私にはどうしても信じられません。

何故ならショパンと言う人は、自分の作品を文学的に解釈されるのを嫌い、だからこそ、自らも自分の作品に対して解説めいた事をほとんど言わないからです。
稀に言う事があったとしても、決して具体的な事は言わず、あくまでも抽象的で間接的な事しか言いません。
したがって、ショパンの手紙にあのような事が書かれている場合、まず「贋作の疑いがある」と考えてみるべきではないかと思われるのです。

それにこのエチュードは、この時すでに出版されてから6年も経っていた訳で、それが黒鍵のために書かれている事ぐらい、この曲を知っている人なら誰でも常識だったはずだからです。
それをわざわざ、同じ音楽家でもあるフォンタナ相手に今更言うでしょうか?

また、確かにこの曲は黒鍵のために書かれてはいますが、しかしそれが全てではない事も事実で、そんな事ぐらいショパン本人が分かっていないはずがありません。
実は、この曲を弾いた事がある人、あるいは楽譜を見た事のある人なら知っていますが、この曲は完全に黒鍵だけで書かれている訳ではありません。白鍵も少し混じっています。
ショパンが本当に黒鍵のためだけに練習曲を書こうと思ったのなら、最後まで白鍵を一つも使う事なしに書き上げる事だって出来たはずです。それなのに何故そうしなかったのでしょうか? それは彼が、自身に湧き上がる音楽的霊感を無視する事が出来なかったからです。つまり、そこに白鍵を混ぜればもっと良い曲になる事が分かっている以上、ショパンはそうする事に何の躊躇もないと言う事なんですね。
もしもこれが、作曲家として才能のない人間だったら、本当に黒鍵だけで曲を書き上げて、この手紙に書かれている通り「少しも面白くない」曲になっていた事でしょう。
要するに、ショパンは、この曲が単に「黒鍵のためだけに書かれたつまらない練習曲」ではない事を、自分でちゃんと分かっていると言う事なんです。
したがって私の考えでは、おそらくこの手紙は贋作で、ショパンが書いたのではない可能性が高いと思います。こんな事を書くのは、音楽の事をよく分かっていない人間、もっと言えば、ショパンの音楽の本質をよく分かっていない人間でしかあり得ないのではないでしょうか。

この手紙には、他にも不自然な点がたくさんあります。
まず、この宛先人であるフォンタナは、ワルシャワ時代からの友人で彼もまた音楽家でしたが、当時はショパンのマネージャーのような事をしていて、ショパンの仕事の手伝いや身の回りの世話などを献身的にしてくれていました。なので、ショパンが彼宛に手紙を書く時、必ずそういった用件を伝えるために書いていたのです。ところが先の手紙には、肝心のその用件が何も書かれていないんですね。
この二人は、普段は同じパリに住んでいますから、ショパンがパリにいる時は直接口頭でやり取りをするので当然手紙は書きません。ショパンがパリを離れている時にのみ、仕事やその他の用件で手紙をやり取りしなければならない事になるのです。そんな訳ですから、かつて離れ離れに暮らしていた「単なる友人」のティトゥス・ヴォイチェホフスキに手紙を書いていたのとは訳が違い、ショパンが何の用件もなしに、ただ世間話をするためだけのためにフォンタナに手紙を書くなんて事はまず考えられない事なのです。

しかも、手紙の内容が、この前後に書かれたフォンタナ宛やグジマワ宛の手紙、あるいはジョルジュ・サンドが友人宛に書いた手紙と、あまりにも重複しすぎています。元来が筆無精のショパンが、同じような話題をただ繰り返すためだけに手紙を書くなんて事は非常に考えにくい事です。
つまり贋作者は、それらをネタ元にして新たな手紙を捏造している可能性が高く、これは、ショパンの贋作書簡には必ず見られる特徴でもあります。
たとえば、上記のクララ・ヴィークについても、ショパンはこの一ヶ月ほど前に書いたフォンタナ宛の手紙にこう書いているのです…
「…(略)…もしも君がクララ・ヴィークを気に入ったのなら、君は正しいよ;彼女は誰よりも上手に弾く。もしも彼女に会ったら、僕から宜しくと伝えておいてくれたまえ、あと彼女の父親にも。…(略)…」
(※1839年3月『マルセイユのショパンからパリのユリアン・フォンタナ宛の手紙』より)

この手紙には日付がありませんが、仕事上の伝達事項が書かれている事からも、ショパンがフォンタナ宛に書いた手紙として疑わしい点は特に見られません。

この当時、クララはパリを訪問中でした。
《「お手をどうぞ」による変奏曲》の記事でも書いた通り、クララは11歳だった1830年に、ショパンのこの変奏曲をいち早くレパートリーに取り入れて話題になっていました。
彼女の父フリードリヒ・ヴィークは、そんな娘を後押しする意味でも、弟子のシューマンが書いた《「お手をどうぞ」による変奏曲》の批評文を発表前にちゃっかり盗用して雑誌に掲載しようと働きかけ、その過程で、パリに着いて間もなくのショパンにもそれを送ったりしていました。
ショパンは、ヴィークの批評文自体は笑い飛ばしていましたが、その後シューマンとの交流を通してヴィーク父娘ともお近付きになり、クララの才能を高く評価して“僕の作品を弾ける唯一のドイツ人”とまで言うようになっていたのです。
だからこそ、フォンタナにも”彼女は誰よりも上手に弾く”と書いていたのに、それがどうして、ただ単に《黒鍵のエチュード》を弾いたと言うだけの理由で、いきなりショパンからあんな言われ方をしなければならないのでしょうか? クララが《黒鍵のエチュード》を巧く弾けるかどうかなんて、そんな事はショパンなら聞かずとも分かっているはずなんです。
なので、私にはとてもショパンのコメントとは思えないんですね。

ショパンの手紙には非常に贋作が多いのですが、それらを捏造するのは、例外なく、国粋主義的なポーランド人です(カラソフスキー然り、タルノフスキー然り、パウリーナ・チェルニツカ然り…)。
なので、その内容は殊更愛国心が強調されたものになっていて、それ故、リストやシューマン、ジョルジュ・サンド等の、同時代の外国人の芸術家達を貶めるような事も多く書かれています。
先の手紙にも如実にその傾向が現れていて、ここでは初期のショパン作品を広めるのに一役買ってくれたクララ・シューマンが餌食にされてしまってます。

とにかくです、この手紙が本物であれ偽物であれ、こういう偏狭と言うか狭量な意見はあまり聞きたくないものですね。かえって名曲のイメージを損なう事にしかならないと思いますから。
それと、ショパンやクララの名誉のためにも…。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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ショパン:チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲(2台ピアノ版)

2013/05/13 08:39
♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲(2台ピアノ版)by Tomoro

Chopin : Grand Duo Concertant sur des thémes de Robert le Diable (for two pianos) /Tomoro

● 作曲年:1831〜1832年
● 出版年:1833年
● 献呈者:アデール・フォレ嬢


 【ジャンル解説】
ピアノの詩人と謳われるショパンは、その作品のほとんどがピアノ独奏曲で、室内楽曲はこれを含めてもたったの4曲しか書いていません。

  1. ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8
  2. チェロとピアノのための序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3
  3. チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲 ホ長調
  4. チェロ・ソナタ ト短調 作品65

ショパンがピアノ以外に注目していた楽器がチェロだったと言うのがよく分かります。
※実は、この他にもう1曲、《フルートとピアノのための「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調(遺作)》という作品があるにはあるのですが、これには贋作説があり、私も明らかにショパンの曲ではないと思っていますので、本稿では取り上げません。私がこれを贋作と結論付ける根拠は至って簡単で、ピアノ・パートが完全に素人の手によるもので、ごく単純な伴奏形に終始しているだけで、協奏的要素も全くないからです。また、ショパンの変奏曲には特徴的な序奏と終結部が伴われますが、この曲にはそのどちらもありません。典拠もあいまいで、今まで一度も自筆譜が確認されておらず、しかしそれ以前の問題として、これがショパンの作品である事を示唆し得る音符が一つも書かれていないからです。ショパン作品では、歌曲におけるシンプルなピアノ伴奏ですら、ここまで工夫も主張もないと言う事はありません。

この曲にはピアノ独奏版などの別編成バージョンは存在していませんが、本稿では独自に、これの室内楽版を2台ピアノ版としてお送りいたします。
尚、楽譜はナショナル・エディション(エキエル版)を用い、チェロ・パートをそのままファースト・ピアノにしてステレオ右寄りに、従来のピアノ・パートをセカンド・ピアノにしてステレオ左寄りに配置してあります。


 【作品解説】
この曲は、ジャコモ・マイヤベーア(マイアベーア)(Giacomo Meyerbeer 1791−1864)のオペラ《悪魔のロベール》からテーマをとって作られました。ショパンは、パリに到着して間もなく、友人に宛てた手紙の中で、このオペラについて次のように書いています。
「…(略)…クロシアート(※エジプトの十字軍)を書いたマイヤベーアによる五幕の新作オペラ“悪魔のロベール”のような華やかさが、かつて劇場において成就された事があるかどうか、僕は知らない。それは新しい楽派の傑作で、悪魔達(大合唱)がメガホンを通して歌い、精霊達が墓場から起き上がって来る(でも、ザ・シャルラタン(※クルピンスキのオペラ)のようではない)、ちょうど50人か60人のグループだ;舞台はジオラマになっていて、終わりの方で教会の内部が見えるようになり、その教会は、クリスマスか復活祭のようにライトアップされ、修道士達や礼拝に集まった人々が席に着いている:――舞台の上にはオルガンまであって、その音にはうっとりさせられるし驚かされもして、オーケストラを掻き消してしまうほどだ;このようなものは他では上演できないだろう。マイヤベーアは彼自身を不朽のものにした! しかし彼はこれをモノにするまでパリで3年を費やし、2万フランもの経費を払ったと言われている。
…(略)…シュレジンガー(※音楽出版者)が、ロベールから主題をとって何か書く事を僕と契約したが、彼はそれ(※ロベールの版権)をマイヤベーアから2万4千フランで買ったのだ!…(略)…」
(※1831年12月12日付の『ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より


この手紙から、ショパンが、パリの音楽出版業界の大御所であるモーリス・シュレジンガー(Maurice Schelesinger 1798−1871)の依頼でこの作品を書いた事が分かります。

ショパンは、この2日後に書いた師エルスネル宛の手紙でも次のようにコメントしています。
「…(略)…オペラの作曲家として10年の名声を持つマイヤベーアも、パリで熱狂を巻き起こした彼の悪魔のロベールをプロデュースして上演するまで3年間待たねばならず(ここではずっとオベールがいたので)、彼はその間働き、経費を払いました。…(略)…」
(※1831年12月14日付の『ユゼフ・エルスネル宛の手紙』より


前に《マズルカ 第4番》の項で「カルクブレンナー事件」についてお話しましたが、これは、その時エルスネルがショパンに忠告した手紙に返事したもので、エルスネルがポーランド・オペラを書いて欲しいと言ったことに対して、ショパンが何だかんだと言い訳をして固辞している文章の中の一つです。
ショパンは、オペラ鑑賞は大好きなのに、自分でオペラを書こうと言う気は全くないんですね。

オペラ《悪魔のロベール》については、更に翌年、ショパンは、パリで知り合ったピアニストで友人でもあるヒラー宛の手紙で、次のように書いています。
「…(略)…モーリス(※シュレジンガー)は、ロベールの上演のためにロンドンに行っていたが、戻って来た(成功しなかった)…(略)…」
(※『1832年8月2日付の『フェルディナンド・ヒラー宛の手紙』より

ショパンにしてみれば、言わば二次創作的にこのオペラから主題を用いて作品を書いた訳ですから、そのオペラが海外でも成功を収めれば、それはそのまま自作の海外進出にもつながりますから、その意味でもロンドン公演の結果は気にはなった事でしょうね。


ショパンの《チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲》については、シューマンが次のように評しています。
「それはサロンのために運命付けられた作品だ。…(略)…ショパンが触れるものは何でも、優雅さと品格を帯び、この小さなサロン様式において、彼は優美かつ魅力的に彼自身を表現する…(略)…」
(※ロベルト・シューマン、音楽と音楽家についての雑文(1836年:ライプツィヒ)より



楽譜には、チェリストのオーギュスト・フランコム(フランショーム)の名前もクレジットされています。
ショパンは、彼とはパリで知り合い、生涯の友となる訳ですが、これは、チェロ・パートに関して、彼に負うところがいかに大きかったかがうかがい知れる処置と言えるでしょう。
その事も理由の一つなのかもしれませんが、この曲は、完成してから翌年には直ぐ出版され、正式な献呈もあるのに、ショパンは作品番号を付けませんでした。
要するに、そもそも原曲も他人のものだし、しかも出版者の依頼で書いたものだし、チェロ・パートはフランコムの貢献度大だし、なので自分の作品として数に入れるには、色々な意味で少々憚られたのかもしれませんね。


実は、後にショパンは、このマイヤベーアとは、《マズルカ 第24番 ハ長調 作品33の3》を巡って一悶着起こす事になるのですが、それについてはその曲を紹介する時に改めてお話する事にしましょう。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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