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zoom RSS ショパン:マズルカ 第2番 嬰ハ短調 作品6-2

<<   作成日時 : 2013/04/16 12:23   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:マズルカ 第2番 嬰ハ短調 作品6-2 by Tomoro




Chopin : Mazurka No.2 in C# minor Op.6-2 /Tomoro
● 作曲年:1832年
● 出版年:1832年
● 献呈者:ポーリーヌ・プラーテル伯爵令嬢


 【ジャンル解説】
マズルカは、ショパンの祖国ポーランドの民族舞踏の一種です。
中部マゾフシェ地方の快活なマズル、
西部クヤヴィ地方のゆったりしたクヤヴィアク、
南部シロンスク地方の急速なオベレク、
の三つに分類され、主に農民によって踊り継がれてきました。

ショパンのマズルカは、それら三つの要素を巧みに融合させながら、独創的で芸術性の高い作品に仕上げられています。


 【作品解説】
《マズルカ 第2番》は、《4つのマズルカ 作品6》として出版された中の第2曲目です。

前回も説明した通り、この年、ショパンがいきなりマズルカを量産してすぐに出版した背景には、パリデビュー公演のメイン演目だった《ピアノ協奏曲 ホ短調》が出版しずらい音楽事情にあった事と、その代わりに、当時パリに多くいた亡命ポーランド人達に向けてマズルカのような小品を出版する方が得策と判断されたのではないか、と言うのが私の個人的な想像でした。
パリで起きた暴動のせいで演奏会が開けなくなっていたために、ショパンの音楽活動も滞ってしまっていて、経済的に苦しい状況だった事も、前回紹介した父ニコラからの手紙で分かっています。
それでショパンは、公式出版作品の他にも、個人的に作品献呈する事で臨時収入を得るために《第55番 ニ長調 遺作》の改作や、《第56番  変ロ長調 遺作》なども書いていたようです。

ですから、一概に祖国への郷愁からと言うよりも、単にそれだけではない、もっと現実的な事情がショパンをマズルカ制作へ向かわせていたのではないかとも思うのです。
公式出版作品となった《作品6》と《作品7》の9曲に見られる「多様性や芸術性の高さ」が、また、遺作となった数曲の「舞踏曲としての実用性」が、何かその事を端的に物語っているようにも思えます。

その辺の事情を更に詳しく知る上で、ショパンがパリに到着した当初の事が分かる手紙を紹介しましょう。
ショパンがウィーンからパリに向けて発った際に、彼は、当地で知り合ったポーランド人の友人クメルスキがベルリンへ行くとの事で、途中まで一緒に旅していました。
そしてパリに到着後、そのクメルスキから手紙が届いたので、ショパンがそれに対して返事した手紙があります。

「君は僕に、君が病気だったと報告している;どうして僕はそっちにいなかったのだろう! いたらそうはさせなかったのに;ダンスする事が君のような踊り手から病気を遠ざけなかったとは驚きだ。と言うのも、本当に、この世には考えるべき価値あるものなんてないからだ;君もこっちにいれば、その格言を受け入れるだろう。フランス人はみんな、たとえ骨が剥き出しになっても踊り、そして叫んでいる。」
(※1831年11月18日付「パリのショパンからベルリンのノルベルト・アルフォンス・クメルスキ宛の手紙」より)

この書き出しから想像するに、おそらくクメルスキは、“ウィーンと同様ベルリンでもワルツが流行っていて、マズルカが踊れなくなったせいで病気になっちゃったよ。”みたいな事を書いてよこしたのでしょうね。
「僕はかなり快適にこちらへ到着して(費用は高くついたけどね)、ここにいられる事が嬉しい;ここには世界の第1級の音楽家達がいて、世界の第1級のオペラがある。ロッシーニ、ケルビーニ、パエール、その他色々。;それで僕は、思ったより長くいる事になるだろう。僕がここでうまくいき過ぎているからではなく、時間が経てば、うまくいくだろうからだ。しかし君は幸運だ。君は…[読み取り不能文字]の近くに行ったから;僕はおそらく決して彼らには会えないだろう。君には信じられないだろうが、こちらにはそこかしこに多くのポーランド人達がいる。これらの人々には、一緒に生活できないでいる人や、お互いを探し出せないでいる人もいるが…しかし君もベルリンで彼らの多くを見つけるだろう。…(後略)…」
(※「同上」より)

ショパンはこのあと、10人以上ものポーランド人の友人知人達についての情報を書き連ねています。
その中には、ショパンが《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》を献呈したラジヴィウ公爵の長兄や《ピアノ協奏曲 ヘ短調 作品21》を献呈したポトツカ伯爵夫人などの上流階級の人々もいて、その上でショパンはこう続けています。
「僕は次第に世の中(社交界)に出て行っているが、しかし僕のポケットには1ダカットしかない! それでも君よりはずっとマシだ!…(後略)…」
(※「同上」より)

つまり、たとえお金はなくとも、同郷の人々が何かと助けてくれている…と言う事なんですね。

ショパンがパリに着いてから家族宛に出した手紙は、父ニコラが亡くなるまでの13年分が、姉ルドヴィカの嫁ぎ先に出したものを除き全て内容も公表されないまま戦火に失われてしまいました。なので現在このクメルスキ宛の手紙が、ショパンのパリ到着後の最初の手紙となっています。


《マズルカ 第2番》は、ショパンがパリに渡った翌年の1832年(※当時23歳)に作曲され、同年の出版に際してポーランド出身のポーリーヌ(パウリーナ)・プラーテル伯爵令嬢(※上記の手紙の中には出てきませんが)に献呈されました。
彼女については前回紹介した《マズルカ 第1番 嬰へ短調》で詳述したので省きますが、この年は、この他にも《第56番  変ロ長調 遺作》を個人献呈したアレクサンドリーヌ・ヴォウォフスカ嬢など、パリにおけるポーランド人との交流には事欠かない状況だった事が分かります。

《第2番》は、洗練された《第1番》に比べるとずっとマズルカの土臭さが出た作品ですが、それこそがこの曲の魅力となっており、ショパンのマズルカの典型的な雛形の一つと言えるものです。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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