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zoom RSS ショパン:ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作

<<   作成日時 : 2012/08/23 13:47   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:『ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作』 by Tomoro




Chopin : Nocturne No.20 in C# minor Op.Posth.//Tomoro
● 作曲年:1830年
● 出版年:1875年
● 献呈者:ルドヴィカ・ショパン


 【ジャンル解説】
ノクターン(Nocturne)と言うのは英語ですが、同じ綴りのフランス語「ノクチュルヌ=夜の」を語源とし(※もっと遡るとラテン語の「Nox=夜」に行き着くのだそうです)、音楽的な意味合いとしては、イタリア語の「セレナータ」や、あるいはドイツ語の「セレナーデ、ナハト・ムジーク」と同じ流れを汲むもので、元々は、親しい人や称賛すべき人のために、夕方や夜に野外で演奏される音楽の事です。
日本語では「夜想曲」と訳されています。
現在では、恋人のために歌う音楽と言うイメージが強いかもしれません。
これを最初にピアノ曲にして「ノクターン」と名付けたのは、アイルランドの作曲家兼ピアニストのジョン・フィールド(John Field 1782−1837)でした。
ショパンは、このフィールドの作品から直接影響を受け、自らもノクターンを作曲するようになりました。
現在では、「ノクターン」と言えばショパンの代名詞的な音楽ジャンルとも言えるでしょう。


 【作品解説】
《ノクターン 第20番》は、元々はノクターンとして書かれた作品ではありません。
自筆譜に曲名はなく、「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遅く、表情豊かに)という速度記号と発想記号だけが書かれていました。なので、それが曲名として扱われる事もあります。

この曲は作曲者の生前には出版されておらず、これを遺作として最初に出版したのはポーランド・ポズナンのM.ライトゲルベル社で、その際の曲名は「アダージョ」とされていたそうです。
しかしながら、ショパンの姉ルドヴィカが弟の作品目録を作った際にこの曲を「ノクターン風のレント」としていた事から、以降はノクターンとして扱われるようになりました。


この曲には初期槁と改訂槁の2つの版がありますが、現在一般的に知られているのは改訂稿の方で、本稿でもそちらを採用しております。

私が使用した全音楽譜出版社の解説によりますと、「この初版の冒頭には“姉のルドヴィカが私の第2ピアノ協奏曲の練習の前にひくために”と書かれていた」そうです。
また、「ショパンはこの嬰ハ短調の夜想曲を、手紙と一緒にウィーンから彼の家族へ送った。この手紙は失われてしまったが、曲が写譜され残されていたので、これがライトゲルベル社による出版の際の底本となった」ともあります。

確かにこの《ノクターン 第20番》には、《ヘ短調・協奏曲》のモチーフが使われてはいます。
ただし、それは第1楽章と第3楽章のほんの一部分だけで、しかも調性も歌い回しも違いますから、これを弾く事が協奏曲の練習に役立つともちょっと思えません。

それに、ショパンが本当にそんな事を楽譜に書いていたのか、私にはちょっと疑問が残ります。
と言うのも、ショパンのピアノ協奏曲が出版されるのは2曲ともパリ時代以降ですが、一般にそれを《第1》もしくは《第2ピアノ協奏曲》と呼ぶのは、あくまでもそれらが出版された順序を表すものでしかないからです。
実際の作曲順(初演順も)は出版順とは逆ですから、したがってショパン本人が手紙の中で自分の協奏曲についてコメントする時には、必ず作曲順に《ヘ短調》の方を「最初の協奏曲」とし、《ホ短調》の方を「新しい(あるいは2番目の)協奏曲」としていて、それ以外の場合はそれぞれの調性で呼び分けています。
ですから、まだそれらが出版される前のウィーン時代のショパンが、最初の《ヘ短調・協奏曲》を“私の第2ピアノ協奏曲”と呼ぶ事は絶対にありません。
したがってショパンがこの曲の楽譜に、“姉のルドヴィカが私の第2ピアノ協奏曲の練習の前にひくために”なんて書いてるはずがないんですね。そもそも“姉のルドヴィカ”なんて言い方自体がいかにも説明台詞臭いですし、それに、そのルドヴィカの目録がこの曲のテンポを「レント」としているのに、それを底本としているはずのライトゲルベル社が「アダージョ」としていた点も引っかかります。

なのでこれは、おそらく出版社が、ショパンの協奏曲にかこつけて、宣伝文句のような感じで勝手に書き加えた可能性が高いのではないかと思われます。


さて、この曲が1830年(当時21歳)にウィーンで書かれたのだとすると、ショパンが当地に到着したのは11月23日ですから、それから年が明けるまでの1ヶ月ちょっとの間に書かれたと言う事になりましょうか。

ショパンは、ウィーンに着いた当初は、それこそ希望に胸を膨らませながら、演奏会では《ヘ短調・協奏曲》を弾くべきか《ホ短調・協奏曲》を弾くべきかなどと考えあぐねたりしていました。
当地にいたワルシャワ音楽院時代の恩師の1人ヴェルフェルは、《ヘ短調・協奏曲》の方を推していましたから、ひょっとするとショパンは、そちらの方を弾こうと考えていたのかもしれません。
ところがそんなさ中、ワルシャワでは11月29日に、一部の士官候補生達がロシアの支配に反抗し、コンスタンチン大公を暗殺しようとする事件が起こります。
それをきっかけに両国は緊張状態に入り、ポーランド国内でも革命派と保守派との間で政治的駆け引きが繰り広げられ、ポーランドとロシアの間で本格的に戦争が起こる気配が漂い始めました。

そのニュースを知ったショパンは、音楽活動どころではなくなってしまいます。
もしも戦争になれば、ワルシャワの家族がいつどんな危険に巻き込まれるか分かりませんし、義勇兵として戦争に参加する友人達の事もあります。

そして、この曲は、そんな中で書かれたと言う事になります。
もしもそうだとすると、この曲は、演奏会で弾こうと考えていた《ヘ短調・協奏曲》が、まるで深い悲しみの中に埋没してしまったかのような、そんな心情を表しているかのようです(※ちなみに、初演以降、実際にショパンが演奏会で弾く事になるのはもっぱら《ホ短調・協奏曲》の方で、《ヘ短調・協奏曲》を弾く事は結局ありませんでした)。
そして更に、その《ヘ短調・協奏曲》のモチーフの間に差し挟まれている歌曲《願い》のメロディは、ショパンがこの歌の詩そのままに、「自分が太陽になれたらここからワルシャワの家族を照らしたい、小鳥になれたら飛んで帰って家族のために歌いたい(ピアノを弾きたい)」と、そんな思いを込めてこの曲をワルシャワへ送ったのかもしれません。
これが姉のルドヴィカに託されたのも、ショパンが家族宛に作品を送ると、彼女がそれを皆に弾いて聴かせる役目を果たしていたからです。
それほどルドヴィカはピアノが上手だったのでした。


ちなみにこの作品は、《ヘ短調・協奏曲》歌曲《願い》との関連もあって若干オリジナリティに乏しかったためか、以前はショパンの遺作の中ではそれほど重要なものとは見なされていませんでした。
ところが、2002年の映画『戦場のピアニスト』の中で印象的な使われ方をして以来、その知名度と人気は一気に上がり、普段から耳にする機会もぐっと増えましたね。
ひょっとすると、ノクターンとしては《第2番》に次ぐくらいの人気作品になってしまったかもしれなせん。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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