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zoom RSS ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)

<<   作成日時 : 2012/05/18 14:05   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)
Chopin : Piano Concerto No.1 in E minor Op.11 (for one piano/Tomoro edition)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ by Tomoro






I. Allegro Maestoso /Tomoro

第2楽章 “ロマンス” ラルゲット by Tomoro




II. ROMANCE Larghetto /Tomoro

第3楽章 “ロンド” ヴィヴァーチェ by Tomoro




III. RONDO Vivace /Tomoro

● 作曲年:1830年
● 出版年:1833年(オーケストラ伴奏版)/2010年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:フリードリヒ・カルクブレンナー氏


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、ちょっと趣向を変えて、この曲を私トモロー・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ホ短調・協奏曲のピアノ独奏版)からの続き〜


前回は、あるブログ記事に、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれていた事に対して反論しました。
その際に、ナショナル・エディションによるショパンのピアノ協奏曲のピアノ独奏版が、一つの作品としていかに不完全であるか、つまり、協奏的作品としていかに多くの不備を伴っているかについても説明しました。
たとえそれが、いかにショパン本人による編曲であろうと、その音楽的事実に関しては疑いのない事です。
したがって我々は、その楽譜の真に意味するところを見誤ってはいけないのだと思います。

そこで私は、そのような協奏的不備を補い、あくまでもピアノ独奏曲として完成されたものを聴いてみたいという思いから、《へ短調・協奏曲》の時と同じように、今回もこのようなピアノ独奏版を独自に編集してみようと思い立った訳なのです。

…と言うと少々大げさに聞こえますが、これは単に、2台ピアノ版のセカンド・ピアノから伴奏部分と協奏部分を抜き出し、それを1台ピアノ版の「間抜け」部分に移植しただけです。
ですから、元々楽譜になかった音を勝手に付け加えるなどの越権行為は一切していません。
とは言うものの、たとえば2台ピアノ版のセカンド・ピアノの伴奏をそのまま左手1本で弾くのは物理的に不可能だったりしますから、そう言った場合は私の判断で抜き出す音を吟味し、右手との兼ね合いなどからオクターブ調整するくらいはしています。
これなら、さほど原曲のイメージを損なう事もなく、協奏曲の独奏版と言うよりは、むしろ独立したピアノ・ソナタとして鑑賞に堪え得るものにもなるのではないでしょうか。



さて、ここで話をショパン自身のエピソードに戻しましょう。
《ホ短調・協奏曲》が作曲された経緯や、そしてそれがワルシャワでの告別公演で初演された事についてはすでにお話しましたので、ここではそれ以降の事について書きたいと思います。

ショパンは1830年11月2日に祖国ポーランドを発ち、ウィーンへと向かいます。当時21歳の事でした。
その旅の途中で立ち寄ったヴロツワフから、ショパンが家族宛に送った手紙には、以下のような事が書かれていました。

「…(前略)…そこへ行って見たら、オーケストラとピアノ、それにヘルヴィヒという、モシェレスの第一協奏曲・変ホ長調を弾く予定の役場の小役人のアマチュア演奏家とが準備していました。リハーサルに参加した演奏家達の数は、普通の事ながら少なかったです。彼が楽器の前に座る前に、僕の演奏をもう4年も聴いていないと言うシュナーベル氏が、僕にピアノの調子を調べて欲しいとの願いを申し入れてきました。拒否する理由もないので、(僕は)ピアノの前に座って、変奏曲をいくつか弾きました。シュナーベル氏は非常に喜んでくれましたが、ヘルヴィヒは(僕の前で)演奏する事を恐れて出演するのを断念し、他の人達が(僕に)夕方の演奏会に出演して欲しいと頼み始めました。殊更シュナーベル氏が是非にと言うので、この押しの弱い老人の依頼を受けない訳には行きませんでした。彼はエルスネルさんの大の親友であるとの事ですから。僕は数週間弾いていなかったし、ヴロツワフで演奏して拍手喝采を浴びるなど思いもよらない事だったのですが、(僕が)彼のために出演すると答えたところ、僕の事はすべてを知っていて、だから昨日、教会で僕に会った時、演奏を依頼したいと思っていたけど、頼む勇気が無かったのだそうです。そこで、彼の息子と一緒に楽譜を取りに行き、皆の前で第2協奏曲のロマンスとロンドを弾きました。これは演奏会前の練習でしたが、オーケストラのドイツ人達は僕の演奏に非常に感心したようです。彼らは、(僕が)“なんと軽快な指の動きをするのだろう”との驚きを見せましたが、曲自体については何も言いませんでした。ティトゥスの耳に、“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”と言う、彼らの内の一人の言葉さえ入ってきました。…(後略)…」
(※『1830年11月9日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら


伝記の上では、この時、ショパンの唯一無二の親友と言われているティトゥス・ヴォイチェホフスキがショパンに同行していたと伝えられているのですが、私は、その話は伝記作家のカラソフスキーとヴォイチェホフスキ本人による作り話だと考えており、実際には、ショパンは1人でウィーンに向かっていたのだと思っています(※その根拠はこちら)。

それはさておき、ショパンはこの夜の演奏会では、飛び入りだった事もあって、結局《ホ短調・協奏曲》の第3楽章のロンドだけをオーケストラ伴奏で弾き、あとはソロで即興演奏を披露しました。
その後ショパンはヴロツワフを発ち、ドレスデンを経て11月23日にウィーンに到着しますが、ところが肝心のウィーンでは、たった1年で状況ががらりと変わってしまっており、期待に反して昨年のような後押しが得られず、なかなか演奏会を開く事ができませんでした。

年が明けてしばらくした後、やっと4月4日に客演として演奏会に参加しますが、出演者はたった10人でオーケストラも使えず、ショパンは《ホ短調・協奏曲》を抜粋で、しかも、おそらくピアノ独奏版で弾いたのだろうと言われています。
しかしながらその演奏会は、観客の数よりも出演者の数の方が多かったと揶揄されるような有様で、ショパンの名声にとって何の足しにもならないものでした。

次にウィーンの舞台に立ったのは、6月11日に行なわれた慈善演奏会で、この時のメインの演目はバレエでした。
ただし、前回と違ってオーケストラが使えたので、ショパンは《ホ短調・協奏曲》の全楽章をオーケストラ伴奏版で演奏しました。
ちなみにショパンは、この曲をワルシャワの告別公演で初演した時、最初に第1楽章を弾き、他者の演目を挟んだ後に第2、第3楽章を弾くと言うプログラムを組んでいましたが、この時もやはりそうしていました(※ショパンは、ワルシャワでのプロ・デビュー公演で《ヘ短調・協奏曲》を弾いた時にも、同様のプログラムの組み方をしていました)。
この演奏会の様子は、当時のウィーンの『一般演劇時報』(1831年6月18日付)で、以下のように報じられています。

「…(前略)…ワルシャワ出身のこの若き音楽家は、流行に迎合した興味本位で軽薄な音楽で、はかない名声を得ようとすることなく、独自の道を進む芸術家の一人である。彼の演奏は優美で非常に洗練されている。曲そのものは透明感に満ちた展開をするが、テンポはいささか奔放すぎるきらいがあり、華麗で印象的なカデンツァを用意してはいるものの、もう少し変化があるほうが望ましい。
しかしこれはさほど重要な問題ではなく、訓練と経験によって改善されるものである。彼はかっさいを浴び、第一楽章が終わると舞台に呼び戻された。また、次にアダージョとロンドを演奏した後にも同じような反応を受けた…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』東京音楽社より)


ところが、それなりに好評だったにも関わらず、この演奏会も思ったより客が入っておらず、出演者への支払いすらないと言う有様でした。
当時のウィーンは、もはや「音楽の都」と呼ぶに相応しいものではなくなってしまっており、音楽家も聴衆も、音楽を芸術として真剣に追求しようとするような風潮ではなくなっていたのです。
ショパンはウィーンでの音楽活動にすっかり希望を失くし、その後コレラの流行などもあったりしたため、ついにウィーンを去る決心をします。

パリへ行くためのパスポートの取得に手間取りはしましたが、1831年6月20日に出発し、途中でミュンヘンに立ち寄ります。
この時ショパンは、ワルシャワにいる父からの送金を待つため当地に留まり、その際にミュンヘンの王室歌劇場で指揮者を勤めるシュトゥンツに誘われて演奏会に参加する事になります。
ここでもショパンは《ホ短調・協奏曲》を弾きますが、ただしこの時は、会場の小ささや当時の批評文から察して、2台ピアノ版での演奏だったのではないかと言われています(※ちなみに、この時は《ポーランド民謡による大幻想曲》も弾いており、そちらの方が会場の反応が良かったのだそうです)。


それからようやく、同年の9月末頃に、ショパンは新天地のパリに到着します。
ショパンが23歳の時でした。

パリに落ち着いて間もなく、ショパンは、少年時代から憧れの存在でもあった当代随一のピアニスト兼作曲家であるカルクブレンナーと知り合いになります。
カルクブレンナーは直ぐにショパンの才能に気付き、自分の弟子にしてあげるとまで申し出たほどでした。
ショパンはその話は辞退しましたが、カルクブレンナーはショパンがパリで演奏会を開けるように尽力してくれ、その甲斐あって、翌1832年2月26日に、ショパンにとっても音楽界にとっても歴史的なショパンのパリ・デビュー公演が行なわれたのでした。

ショパンはそこで、《ホ短調・協奏曲》や小品をいくつか演奏しました(※プログラムには《「お手をどうぞ」による変奏曲》も載っていたのですが、どうやら本番ではやらなかった可能性が高いそうです)。
客席は満席とはならなかったものの、リストやメンデルスゾーンを始めとする、当時パリにいた主要な芸術家や評論家達が聴きに来ていました。
その事が幸いし、この演奏会における小さな成功は、やがてセンセーショナルな出来事としてパリ中の噂になったのでした。
この演奏会の様子は、当時のパリの音楽雑誌『レビュー・ムジカール』(1832年3月3日付)で以下のように評されました。

「…(前略)…彼は先人をまねることなく…(中略)…しかも他には見られない独自の曲想を豊かに持ち合わせ…(中略)…この種の分野に大きな衝撃を与えた…(中略)…ショパンは協奏曲を披露し、曲の組み立て、転調、全体の展開、そして曲想の新鮮さで聴衆を楽しませると同時に驚愕させた。…(中略)…しかし全く欠点がなかったわけではない。転調が過度に行なわれて、展開がやや秩序に欠けるきらいがあり、完成された曲というより即興演奏を聴いているような趣きがときおり感じられた。だがこのような欠点は本人の年齢に帰するもので、経験を積むにつれて消えていくに違いない。ショパンのこれからの作品がデビューで得た期待にこたえらるようなものであれば、彼は疑いなく、華々しい、そして受けるにふさわしい評価を勝ち得ることだろう。…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』東京音楽社より)


同誌では、ショパンの演奏についても、「称賛に値した」としつつも、今後はさらに「力強い演奏」を求める由も書かれており、ショパンの演奏会に必ずついて回る音の小ささが、遠回しながらも指摘されていました。

以前、ショパンの伝記等では、この時に弾いたのは《ヘ短調・協奏曲》の方だったとされていたのですが、最近の研究で、あらゆる資料や当時の関係者らの証言によって、《ホ短調》の方だった事が確認されています。
これについては、小沼ますみ著『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)に詳しく書いてありますので、興味のある方は是非ご覧になってみて下さい。

ショパンは、まだウィーンに到着した当初は、家族宛の手紙の中でヘ短調を弾くかホ短調を弾くか迷っていた時期もありましたが、結局、ワルシャワでの告別公演で《ホ短調》を初演して以来、このパリ・デビューに至るまでの間、一貫して《ホ短調》の方を弾き続けていた事が分かります。

この《ホ短調・協奏曲》がもたらした成功によって、ショパンは出版社との契約を取り付け、それを受けて同曲を1833年に出版した際には、これを恩義あるカルクブレンナーに献呈したのでした。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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