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zoom RSS ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(2台ピアノ版)

<<   作成日時 : 2012/04/30 23:58   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11(2台ピアノ版)
Chopin : Piano Concerto No.1 in E minor Op.11 (for two pianos)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ by Tomoro






I. Allegro Maestoso /Tomoro

第2楽章 “ロマンス” ラルゲット by Tomoro




II. ROMANCE Larghetto /Tomoro

第3楽章 “ロンド” ヴィヴァーチェ by Tomoro




III. RONDO Vivace /Tomoro

● 作曲年:1830年
● 出版年:1833年(オーケストラ伴奏版)/2010年(2台ピアノ版)
● 献呈者:フリードリヒ・カルクブレンナー氏


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによる2台ピアノ版でお送りいたします。
尚、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに配置してあります。


ショパンは、ピアノ協奏曲を書くに当たって、極めて計画的に準備を進めてきました。

たとえば、ショパンがそれ以前に手掛けたオーケストラを伴う作品を順に見ていくと、
 1.《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》(1827年)
 2.《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13》(1828年)
 3.《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》(1828年)
最初の2作が他の作曲家のテーマを使ってオーケストラ・アレンジの習得を兼ねていたものだとすれば、3作目は自作のテーマでそれを試したものと言う事になります。

また同様に、ショパンが手掛けた多楽章形式(ソナタ形式)の作品を見ていくと、
 1.《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4》(1827〜8年)
 2.《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》(1828〜9年)

これらは全て、ショパンがワルシャワ音楽院に在籍していた3年間に書かれたもので、それはすなわち、ショパンが何のために音楽院に通っていたのかを物語るものです。
つまり、「ピアノ協奏曲」を最終目標に据えて、ショパンがきちんと順を追って作曲の勉強をしていた事を表しています。これはもちろん、音楽院でショパンに作曲を教えていたエルスネル院長の導きによるものです。

なぜ「ピアノ協奏曲」を書かなければならなかったのかと言うと、当時のピアニスト兼作曲家がプロ・デビューするに当たっては、それを披露するのが一般的な慣わしだったからです。
当時はもちろんレコードもCDもありませんから、音楽家が作品を発表するには実演するしかありません。それで宣伝しなければ、もちろん楽譜も売れない訳です。
そしてそれを実演する場が演奏会だった訳ですが、当時の演奏会と言うのは、現在とはちょっと事情が違っていました。
元々「演奏会」と言うのは、多くの共演者や様々な芸術的演目が雑多に盛り込まれて行なわれるイベントで、一種のバラエティー・ショーのようなものでした。
ですから、たとえば1人のピアニストが最初から最後までたった1人で独演会を行なうようなリサイタル形式の催し物と言うのは、現在でこそそちらの方が一般的ですが、当時はまだなかったのです。それを最初に始めたのはフランツ・リストで、1839年になるまで待たなければなりません。
ヨーロッパの国々では、「協奏曲」と「演奏会」が同じ単語で語られている事からも分かるように、そのような「演奏会」にあって「協奏曲」は正にその象徴的な演目だったのです。
しかも、当時まだ新しい楽器として進化を続けていたピアノとピアノ音楽の世界においては、「ピアノ協奏曲」と言うのは、ピアニスト兼作曲家がピアニストとしての腕前と作曲家としての総合的な能力を一度に披露するのに打って付けでした。
ですから、当時すでにワルシャワではその両方において右に出る者のいなかったショパンですら、正式にプロとして世に出て行くためには、望む望まずに関わらず「ピアノ協奏曲」を書かねばならなかったのです。

また、そんな時代の流れを反映して、当時のピアノ協奏曲は、古典派時代に比べてずっとピアニスト寄りになっていました。したがって協奏的要素(たとえばピアノがオーケストラの伴奏に回ったり、両者が掛け合いをするなど)が減って、オーケストラはほとんどピアノのための伴奏に終始する傾向が強くなります。文字通りほとんど「カラオケ」のようなものです。
ショパンは、たとえばフンメルやカルクブレンナーに代表されるような、そういった古典派とロマン派の間に位置する当時の先輩ピアニスト兼作曲家達の作品をお手本にしていました。
ですから、ショパンのピアノ協奏曲も彼らと同じような傾向にあり、ピアノの優位性に対してオーケストラは極めて控えめになっています。
ところが、そのために、そう言った当時の音楽事情が忘れ去られた後世においては、ショパンはオーケストラ・アレンジが不得手であると言った評判が定説化してしまいます。
それだけならまだしも、その欠点を補おうとして、勝手にオーケストラ・パートを充実させた編曲版までもがいくつも登場してしまうと言う始末です。

確かにショパンはオーケストラ・アレンジが得意だったとは言えないのかもしれませんが、しかしこれは得意不得意の問題と言うよりも、元々ショパンの関心がピアノ独奏曲の方により強く傾いていたと考えた方が正しいように思われます。
ショパンが、心身ともに非常な労力を要する演奏会を好んでいなかったのは事実ですし、また、ピアノの音が小さい事を欠点として常に指摘されるため、オーケストラとの競演にも積極的ではありませんでした。
だからこそ、パリ移住後に名声を確立し、作曲とレッスンだけで生計が立てられるようになってからは、苦手な演奏会をしなくても済むようになったので、そのためほとんど演奏活動をしなくなります。
必然的にオーケストラを伴う作品を書く必要もなくなり、その結果、自ら自分の本分とみなしたピアノ独奏曲の作曲のみに専念するようになるのです。


さて、ショパンが書いた2つの協奏曲のうち、2番目に手掛けられたのが本作の《ホ短調》になります。当時、ショパンが21歳の事です。
最初の《ヘ短調・協奏曲》が1830年3月17日にワルシャワでのプロ・デビュー公演で初演され、その一大イベント(追加公演もあり)の終了後、直ぐに着手されました。
現在では《ホ短調》の方が《第1番》となっていますが、それは作曲順と出版順が逆になったためです。

そうなった理由については、ショパンの関係者の証言で、「最初の出版に際して、ヘ短調のオーケストラ総譜が見当たらなかったので、かわりにホ短調を送ったため」(※下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』より)とショパンが語ったと言うものが伝えられています。しかしこのような話には全く現実味がありません。
まず、協奏曲のような大掛かりな作品の楽譜が「見当たらない」なんて話にも現実味がありませんし、そのかわりに別のを送ったなんて話にも全く現実味がありません。
ショパンが《ホ短調》の方を先に出版したのは、当時のショパンがあくまでもそちらの方を自信作とみなしていたからで、現にパリのデビュー公演では《ホ短調》の方を演奏し、それが好評を得て、それで出版にこぎつけたからです。ですから、そうして出版された《ホ短調》の楽譜には、作品の紹介文としてその由がきちんと書き添えられています。
また、同曲がカルクブレンナーに献呈されたのも、ショパンのパリ・デビュー公演が彼の尽力なくしては開けなかったからで、その事に対する感謝の意味もあったのです。
そのような状況なのに、当時まだパリでは無名に近かったショパンが、まだ聴衆の前で一度も披露していない《ヘ短調》の方を先に出版しようと考えていたはずがない訳です。

ショパンが結局《ホ短調》の方ばかりを演奏会で弾いていた事に関連して、パリ時代にショパンに師事したレンツが以下のように証言しています。
「ショパンがとくに力をいれて練習させたのは、コンチェルト ホ短調作品11であり――この曲の第1楽章は最も完成されたものとして彼の目に映っていた――この曲は彼が演奏会で弾いていた頃の思い出に結びついているものであった。“わたしはこの曲が大好きでした。昔はこれを弾いていたのです!”と、彼は独り言のような口調で話すのである」
(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著/米谷治郎 中島弘二訳『弟子から見たショパン』(音楽之友社)より)



《ホ短調》の初演は1830年10月11日で、ワルシャワでのショパンの告別公演においてでした。
翌日の新聞では、以下のように伝えられています。

「昨日、音楽を愛する者たちにとってこの上なく楽しい夕べが催され、約七百人の音楽愛好家がその恩恵に浴した。ショパンが作曲し、彼自身の演奏で初演された新しい「ピアノ協奏曲 ホ短調」は、あらゆる音楽の頂点を極める作品と評価された。とくにアダージョ(※第2楽章。出版時にラルゲットに変更)とロンド(※第3楽章)はすべての者に歓喜とともに受け入れられた。作曲者であり演奏者であるショパンは嵐のような拍手を受け、演奏が終わるごとに呼び出された。…(後略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝晃一訳『ピアニスト・ショパン(下巻)』より)


これと同じ日にショパンが友人宛に書いた手紙でも、ほとんどこの新聞記事と大差ない内容の事が報告されています(※その手紙の全文はこちら)。

この時は、公演直後にショパンがウィーンへの出発を控えていた事もあってか、追加公演は行なわれませんでした。



ちなみにこの曲の第2楽章について、ショパンは友人宛の手紙で以下のような事を書いたとされています。

「新しい協奏曲のアダージョはホ長調だ。大袈裟に響かせるつもりはなく、よりロマンス風で、静かで、メランコリックだ;幾千もの大切な思い出が心に浮かんでくるような場所を、優しく見つめているような印象を与えなければならない。それは、美しい春の空の下、月光に照らされた小屋の中での、一種の瞑想だ。…(後略)…」
(※『1830年5月15日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


しかしながら、自分の作品を文学的に解釈される事を誰よりも嫌っていたショパンが、自ら自分の作品にこのような文学的解説をしてみせるなんて事は、絶対にありえない事だと断言できます。
稀にショパンが自分の作品についてコメントする時があっても、決して具体的な作品解説みたいな事はせず、必ずショパン特有のひねくれた言い回しでジョークを書くくらいなのです。
たとえば、《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》については、こんな具合に書いていました。

「《ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク》の楽譜は出来上がったよ。序奏は独創的だ、御伽噺にでも出てきそうな滑稽極まりないコートを着た僕よりずっとね。」
(※『1828年12月27日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


これこそが、いかにもショパンらしい言い回しと言うもので、これと比べると、先のアダージョのくだりが、いかに何のひねりもなく「そのまんま」で、誰にでも簡単に書けてしまうような稚拙なものであるかが分かるでしょう。
これは明らかに、作曲者が曲を書いた際の秘話などと呼べるような代物ではなく、あくまでも第三者の鑑賞者が曲を聴いた際の感想文であり、それ以外の何物でもありません。
要するに、その文章を書いた人間の芸術的センスがその程度のものだと言う事なんですね。

したがってこの記述は、他でもない、この手紙の受取人であるヴォイチェホフスキが書いたものです。
彼が、伝記作家のカラソフスキーに資料提供するためにこの手紙の「写し」を取った際に、読者の興味を引くために、あるいは、ショパンは自分にだけはこんな事まで打ち明けてくれていたんだと、そんな友情物語を捏造するために勝手に加筆改ざんしたものです(※ヴォイチェホフスキは、ショパンの直筆原文は一切公表せず、生前に全て処分してしまっています。ショパンの友人でそんな事をしているのは彼だけです。他の友人達は必ず直筆原文を残しています)。


話は変わりますが、最近、あるブログ記事に、ショパンのピアノ協奏曲について、「本人がオーケストレーションをしていないのは、まず確かなこと」と書かれているのを見つけ、そのあまりに的外れな話に唖然としてしまいました。
しかもそれを書いているのはショパン関連のプロのライターで、更にその記事の根拠となっている話は、何とショパン弾きとして著名なピアニストに取材したものなのです。

ショパンが協奏曲を書くためにどれほど計画的に準備してきたか、そしてそれを師匠のエルスネルがどれほど綿密に順序だてて導いていたか、それについてはすでに説明した通りですが、これは、そういった彼らの努力に対する冒涜とも言えるような話です。

なので、次回は《ホ短調・協奏曲》のピアノ独奏版を紹介しながら、その間違った話に対して是非とも反論しなければならないと思います。

〜次回(ホ短調・協奏曲のピアノ独奏版)へ続く〜

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。



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