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zoom RSS ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22(2台ピアノ版)

<<   作成日時 : 2012/03/08 11:59   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22(2台ピアノ版)
Chopin:Andante spianato et Grande Polonaise brillante in E-flat major Op.22(for two pianos)

アンダンテ・スピアナート(2台ピアノ版) by Tomoro


Andante spianato (for two pianos) /Tomoro

華麗なる大ポロネーズ(2台ピアノ版) by Tomoro


Grande Polonaise brillante (for two pianos) /Tomoro

● 作曲年:ポロネーズ部 1830〜31年
● 作曲年:アンダンテ・スピアナート部 1834年
● 出版年:1836年
● 献呈者:デスト男爵夫人


 【ジャンル解説】
ポロネーズはフランス語で「ポーランド風」の意味があり、その名の通りポーランドの民族舞踏の一種です。
マズルカ同様、農民や市民によって踊り継がれていたものが、やがて士族や貴族階級にまで広がって洗練されていったと言われています。
行進曲的な色合いもあり、様々な式典等で踊られる事が多いようです。


 【作品解説】
本稿では今回、この曲をナショナル・エディション(エキエル版)による2台ピアノ版でお送りいたします。
尚、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに配置してあります。

この作品は、ピアノ独奏による序奏部分の《アンダンテ・スピアナート》と、オーケストラ伴奏付きの主部の《華麗なる大ポロネーズ》と、それぞれ別々の時期に作曲されています。
《アンダンテ・スピアナート》の「スピアナート」とは、イタリア語で「均一に、滑らかに、ろうろうと歌うように」などの意味がある言葉です。

まずポロネーズ部が最初に手掛けられ、それについては、ショパンが友人に宛てた手紙で次のように言及されています。
「僕は、オーケストラ伴奏付きのポロネーズを書き始めた;でも、これまでのところ、ちょうど基本部分だけで、始まりの始まりだけだ。」
(※『1830年9月18日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

これは、ショパンがいよいよプロの音楽家として外国で成功するために、祖国ポーランドに別れを告げる準備をしていたさ中の事で、出発の2ヶ月前になります。当時ショパンが21歳の時でした。
つまり、そのような差し迫った時期に、ワルシャワで最後に作曲されたポロネーズがこの曲だったのです。

それ以降、この曲について手紙でコメントされる事はありませんでしたが、このポロネーズ部については、翌年のウィーン滞在中に書き上げたとされています。
一方、序奏部の方は、パリ時代に入ってからの1834年に書かれたとされていますから、3年ものブランクを経てようやく完成された事になり、全部で実に4年かかっている事になります。
ショパンは1曲を仕上げるのに長い年月を費やす事が珍しくない作曲家なのですが、さすがに4年は最長記録と言えるものです。
他の作曲家では、たとえばブラームスが《交響曲 第1番》を21年かけて完成させたなんて言う例はありますが、ショパンのように、ほとんどがピアノ独奏用の小品に特化している点を考慮すると、その遅筆さの傾向が窺い知れるのではないでしょうか。

ショパンは、このポロネーズ部を書き上げてからと言うもの、次に新しいポロネーズに着手するまで、なんと5年もの間ポロネーズの作曲から遠ざかっています。
これは、ショパンの作曲遍歴からすると異例の事態とも言える空白期間です。

現在知られているショパン作品で最も古いものは、若干8歳の時に作曲された《ポロネーズ 第11番 ト短調》でした。
ピアノ独奏用の初期ポロネーズでは唯一、作曲者の生前にリアルタイムで出版された作品ではありますが、これには作品番号が付けられませんでした。
《ワルツ 第15番 ホ長調》の項でも説明した通り、当時のショパンは、ポロネーズにしろマズルカにしろワルツにしろ、そう言った舞踏曲はあくまでもダンスのための伴奏であって、本当の意味での「芸術作品」とは考えていなかったからです。
ですから、それ以降も8曲ものピアノ独奏用ポロネーズがコンスタントに書かれますが、いずれも生前には出版されず、遺作となっています。
ただし、ショパンはそのほとんどを親しい友人や知人に個人献呈していますから、出版しなかった理由が作品の出来に不満を持っていたからではない事は明白ですし、実際どれもそれぞれに素晴らしい曲です。

その後、パリ時代の1834〜35年頃になるまでピアノ独奏用のポロネーズが全く書かれなくなったのも、ワルシャワを後にしたショパンが、外国における生活の中で、かつてのように式典的な意味でのポロネーズを求められる機会がなくなっていた事を意味しているのではないでしょうか。
同じポーランド舞曲でも地方色の強いマズルカの方はそんな中でも絶えず書き続けられていましたから、ポロネーズに関してはおそらくそうだったのだろうと考えられます。

ショパンがポロネーズを「芸術作品」と見なして最初に出版したのは、《チェロとピアノのための、序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3》で、これは室内楽作品として書かれました。
そして今回が、それに続く作品番号付きポロネーズの2作目となる訳ですが、今度はオーケストラ伴奏付きの作品として書かれました。

この時期にこう言った作品が書かれたのは、明らかにショパンが、これを外国における演奏会のプログラムに載せようと言う意図があったからです。
当時の演奏会と言うのは、一人のピアニストが独奏曲のみで全ての演目をこなすリサイタル形式のものがまだありませんでした。
音楽、演劇、バレエ等、様々な芸術演目が雑多に盛り込まれた一種のバラエティ・ショーのようなもので、音楽はオーケストラを伴う作品が主だったのです。
したがって、ピアノ独奏曲よりも、オーケストラを伴う作品の方がプログラムに載せやすかった訳で、と言うより、逆にそう言った作品がないと演奏会が開けなかったのです。
ですからショパンは、そう言った作品作りを学ぶべくワルシャワ音楽院に入学した訳ですが、ウィーンへの出発を目前に控えたこの時期、ショパンの手元には、オーケストラを伴う作品は全部で5曲、さらに室内楽は2曲しかありませんでした。
これだと、普通に演奏会を開いたと仮定した場合、2年もすれば底を突いてしまいます。
また、ショパンは、これらの作品の随所にポーランド的要素を散りばめており、室内楽ではポロネーズも用意しましたが、しかしオーケストラ伴奏の作品にはまだポロネーズがありませんでした。
ポロネーズはバッハやベートーヴェンらも作曲しており、世界的にも広く親しまれているポーランドを代表する民族音楽です。
ですから、ポーランド人であるショパンが、自らもそれを作曲して世に問いたいと思うのは当然で、そのためにも、当時はまだピアノ独奏用の小品では不利で、是非とも演奏会用にオーケストラ伴奏付きのポロネーズを書く必要性を感じていたはずなのです。
しかも、これが着手された時期と言うのは、ショパンがワルシャワを発つと決めた日程が、国際情勢の悪化から幾度となく延期されていたそのさ中でした。
つまり、ワルシャワにいながらにして、彼の祖国への思いが一層募っていた特異な時期だったと言えるのではないしょうか。

次回(同曲のピアノ独奏版)に続く〜

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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