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zoom RSS ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版)

<<   作成日時 : 2011/12/29 18:48   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(ピアノ独奏版)
Chopin : Piano Concerto No.2 in F minor Op.21 (for one piano)

第1楽章 マエストーソ by Tomoro






I. Maestoso /Tomoro

第2楽章 ラルゲット by Tomoro




II. Larghetto /Tomoro

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ by Tomoro




III. Allegro vivace /Tomoro

● 作曲年:1829〜30年
● 出版年:1836年(オーケストラ伴奏版)/2003年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
● 献呈者:アンダーソン夫人(イギリス版)


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします。


前回(ヘ短調・協奏曲の2台ピアノ版)からの続き〜


この《ヘ短調・協奏曲》について、ショパンが手紙の中で最初に触れたのは、初めてのウィーン訪問から帰って約3週間後の事でした。
「…(前略)…しかし僕には、おそらく不幸な事かもしれないが、すでに僕自身にとっての理想の人がいて、半年もの間、黙って忠実に仕えてきたのだ;僕はその夢を見ながら、僕の協奏曲に含まれるアダージョを構想し、…(後略)…」
(※『1829年10月3日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

ここに書かれている「アダージョ」が、のちに《ヘ短調・協奏曲》が出版される際に「ラルゲット」にテンポ変更される第2楽章の事です。
しかしながらこの記述は、この手紙の「写し」を取って伝記作家のカラソフスキーに資料提供したヴォイチェホフスキによる加筆改ざんで、当時ショパンはそのような恋などしていなかったと言うのが私の考えです(※それについての詳細は『捏造された初恋物語』で)。
ただし、改ざんされる前の直筆原文には、少なくとも「僕の協奏曲」について何らかのコメントが書かれていたのかもしれず、そこまでは否定できません。

次に「協奏曲」について触れられるのは、それから17日後に書かれた手紙です。
「…(前略)…エルスネルは僕の協奏曲のアダージョを褒めている。彼が言うには、そこには新しい何かがあるのだと。ロンド(※協奏曲の終楽章)については、今はどんな意見も望んでいない。と言うのも、僕自身がまだ満足していないからだ。僕が旅行(※アントニンのラジヴィウ公爵邸への)から戻った頃に完成させられるかどうかは疑問だ。…(後略)…」
(※『1829年10月20日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


次に「協奏曲」について触れられるのは、それから3週間半後に書かれた手紙です。
「僕は、君がキスを送ってくれた、君の一番新しい手紙をアントニンのラジヴィウ邸で受け取った。僕はそこに1週間いたが、その時間がどれほど早く、また楽しく過ぎて行ったか、君は考えられまい。僕は前の郵便馬車で旅から帰って来たが、抜けて来るにはずいぶん苦労したよ。僕自身としては、追い出されるまで滞在できたのだが、僕の仕事が、取り分けまだ終楽章を待ちくたびれている僕の協奏曲が、僕にこのパラダイスを去る事を強制したのだ。…(後略)…」
(※『1829年11月14日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


これ以降、約4ヵ月半に渡る期間に書かれていたはずの手紙は、ヴォイチェホフスキが「写し」を取らずカラソフスキーにも資料提供せず、生前に全て処分してしまったため残っていませんが、ショパンはこの協奏曲を同年のクリスマス前には完成させていた事が分かっています。当時1829年12月23日付のの『ワルシャワ通信』に、以下のような記事が掲載されているからです。
「先週土曜日わが町で、これまでにない美しい催しが開かれた。この催しにはショパンの才能が大いに寄与していた。このわが同胞は外国で絶賛されたものの、祖国ではこれまでのところその才能を十分には披露していない。もちろん慎み深さは才能ある者の持つ美徳であるかもしれないが、このような形で表われるのを殊勝な態度といって手放しで褒めたたえるわけにはいかない。ショパンの才能は祖国のものではないのか? ポーランドはショパンを正しく評価していないというのだろうか? ショパンの作品は疑いもなく天才の所産である。彼の作品の一つである「ピアノ協奏曲 ヘ短調」は、ヨーロッパでも一流の音楽家の作品と肩を並べる出来といってよい。我々はショパンにこれまでもしばしば懇願してきたように、彼自身の栄光やわが国にとって不利な、ポーランドは偉大な才能を生み出せる国だという喜ぶべき結論を打ち消すような消極的な姿勢をやめるよう望みたい。」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より)


更にショパンは、ついに完成した協奏曲を、記念すべきプロ・デビュー公演で初演するに当たって、その本番の2週間前にリハーサルを行なっており、その様子が当時1830年3月4日付の官報に載っています。
「今までその作品についてあまり知られていなかった若き才能にある評論家が気づかせてくれた。ショパンはこれまで卓越したピアノ演奏家としてのみ名をなせていた。だが水曜日、ショパンの別の面を見る機会を得たのである。ショパンは自宅でフル・オーケストラをつけて、すばらしい自作のリハーサルを行い、彼自身がその協奏曲を演奏した。聴衆には専門家も素人もおり、クルピンスキやエルスナーなど音楽家の姿もあった。…(以下略)…」
(※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より)


そしていよいよ本番を向かえた訳ですが、それが好評だったために追加公演も行なわれ、ショパンはその2つの演奏会について、友人宛の手紙にこう書いています。
「…(前略)…最初の演奏会では、ボックス席も特等席も3日前に売り切れになったが、概して、僕が期待していたような印象を与える事はできなかった。第1楽章のアレグロ(これは誰にでも理解されにくい)は、最初のブラボーで報われはしたが、でもこれは、僕が思うに、聴衆が真面目な音楽を理解し、また評価する術を知っているという事を示そうとしたからだ。通ぶった人はどこの国にもたくさんいるものだ。アダージョとロンドは素晴らしい効果をあげて、心からの喝采とブラボーの叫びが続いた。
…(中略)…
クルピンスキはその晩、僕の協奏曲に新しい美を発見したと言った;しかしヴィマンは、人々が僕のアレグロの何が良いと言っているのか未だに分からないと認めていた。
…(中略・追加公演となった2回目の演奏会に触れた後)…
僕は、アダージョがこんなにも多くの人に喜ばれたのを不思議に思っている;僕が聞いたところでは、僕を最も嬉しがらせる意見はこれに関するものばかりだ。…(後略)…」
(※『1830年3月27日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら


また、たとえばショパンの没後間もなくリストが著したショパン伝には、以下のような記述が見られます。
「…(前略)…とは言え、古典の規範を追ったショパンの作品のうちでも、あるものはすばらしい威厳を備えた立派な作品であり、そこには驚くべき壮麗な節々も見出される。
その一例として、第二コンチェルトのアダージョを挙げることが出来る。これは、ショパンが好んで度々弾奏した曲目で、彼の極好んだ作品のひとつである。これは、称賛すべき雄渾な特徴をもった作品で、その付属的な装飾は、もっとも素晴らしい出来栄えを示している。そしてその一節は短調に交換し、このために対歌のような効果を現している。作品全体の動きはほとんど完璧に近い。またその表現は、やわらかい情緒に満ち、燦爛たる明暗をもっている。
それは言わば真夏の喜悦と光に満ち溢れた絢爛たる風景を見せている作品で、幸福の渓谷テンビ(註、古代ギリシャのオリンパス山とオッサ山の間にある美しい谷)を背景として、深刻な、人間苦を描いた、慄然たる情景の物語にも似ている。外部の自然が類例もなく華麗な中に、人生の辛酸と償い得ぬ歎きが凄まじい力で迫ってくる。
この喜悦と凄惨の対照を保ちつつ、この作品は全体として統一され、粗野なつじつまの合わない音律を微塵も見せずに、なだらかに光明から陰鬱へと転換してゆくので一層に効果的である。」
(※フランツ・リスト著/蒔澤忠枝訳『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より)


この「アダージョ(ラルゲット)」が特に人気を博したという事実は、のちにショパンを、彼の代名詞ともなるノクターンの創作に向かわせるのに一役買ったであろう事は、想像に難くないのではないでしょうか。

この《ヘ短調・協奏曲》は、公開の演奏会においては、上記のワルシャワでの2回の演奏会で演奏されたきりで、その後ショパン自身によってオーケストラと共演される事はありませんでした。
ワルシャワでの2回の演奏会では、自分のピアノで弾いた初演の時よりも、大きい音の出るウィ−ン製のピアノを借りて弾いた追加公演の時の方がやはり聴衆の反応は熱狂的で、当時のワルシャワの新聞等でもそうのように絶賛されています(※それらの資料はすべて、ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)で読む事が出来るので、興味のある方は是非ご覧下さい)。
しかしながら、リストの証言によると、どうやらショパンは、この曲を公開の演奏会では弾かなかったものの、サロンなどでは、特にこの曲の第2楽章だけを抜粋でよく弾いていたようで、おそらくその際には、ピアノ独奏版か2台ピアノ版、あるいは室内楽版で披露していたのだろうと考えられます。

実際ショパンは、《ホ短調・協奏曲》の方については、パリ時代に公開の演奏会で弾いた他に、弟子のレッスンで2台ピアノ版を弾いていたと言う確かな証言が残っているからです。


〜次回(ヘ短調・協奏曲トモロー・エディション)へ続く〜


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