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zoom RSS ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(2台ピアノ版)

<<   作成日時 : 2011/12/17 20:32   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(2台ピアノ版)
Chopin : Piano Concerto No.2 in F minor Op.21 (for two pianos)

第1楽章 マエストーソ by Tomoro






I. Maestoso /Tomoro

第2楽章 ラルゲット by Tomoro




II. Larghetto /Tomoro

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ by Tomoro




III. Allegro vivace /Tomoro

● 作曲年:1829〜30年
● 出版年:1836年(オーケストラ伴奏版)/2010年(2台ピアノ版)
● 献呈者:デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
● 献呈者:アンダーソン夫人(イギリス版)


 【ジャンル解説】
協奏曲(コンチェルト)は、基本的にピアノやヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラによって競演される多楽章形式(ソナタ形式)の音楽作品です。
構成はソナタと同じですが、規模が大きいため3楽章から成る場合がほとんどです。

ちなみに、日本では「コンチェルト(協奏曲)」、「コンサート(演奏会)」という風にその両者が区別されていますが、これらは元々「共同で行なう」、「意思を合わせる」などの意味の言葉が語源となっており、たとえばイタリアでは協奏曲も演奏会もどちらも「コンチェルト(Concerto)」で、ポーランドではどちらも「コンツェルト(Koncert)」ですから、どちらの意味で使っているかは文脈や状況で異なります。


 【作品解説】
ショパンは生涯に協奏曲を2つしか書いておらず、それも1829年〜30年にかけて続けざまに制作したきりで、それ以降、オーケストラを伴う作品は、同年から翌31年にかけて書いた《ピアノとオーケストラのためのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》のポロネーズ部を最後に手掛けていません。

ナショナル・エディション(エキエル版)の解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによる2台ピアノ版でお送りいたします。
尚、従来のピアノ・パートを担当するファースト・ピアノをステレオ右寄りに、オーケストラ・パートを担当するセカンド・ピアノをステレオ左寄りに配置してあります。


ショパンは、ピアノ協奏曲を書くに当たって、極めて計画的に準備を進めてきました。

たとえば、ショパンがそれ以前に手掛けたオーケストラを伴う作品を順に見ていくと、
 1.《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2》(1827年)
 2.《ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 作品13》(1828年)
 3.《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14》(1828年)
最初の2作が他の作曲家のテーマを使ってオーケストラ・アレンジの習得を兼ねていたものだとすれば、3作目は自作のテーマでそれを試したものと言う事になります。

また同様に、ショパンが手掛けた多楽章形式(ソナタ形式)の作品を見ていくと、
 1.《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4》(1827〜8年)
 2.《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》(1828〜9年)

これらは全て、ショパンがワルシャワ音楽院に在籍していた3年間に書かれたもので、それはすなわち、ショパンが何のために音楽院に通っていたのかを物語るものです。
つまり、「ピアノ協奏曲」を最終目標に据えて、ショパンがきちんと順を追って作曲の勉強をしていた事を表しています。これはもちろん、音楽院でショパンに作曲を教えていたエルスネル院長の導きによるものです。
しかもそれらの作品が、どれも単なる習作に終わっていないと言うところが、ショパンの類稀な才能を証明しているとも言えましょう。

なぜ「ピアノ協奏曲」を書かなければならなかったのかと言うと、当時のピアニスト兼作曲家がプロ・デビューするに当たっては、それを披露するのが一般的な慣わしだったからです。
当時はもちろんレコードもCDもありませんから、音楽家が作品を発表するには実演するしかありません。それで宣伝しなければ、もちろん楽譜も売れない訳です。
そしてそれを実演する場が演奏会だった訳ですが、当時の演奏会と言うのは、現在とはちょっと事情が違っていました。
元々「演奏会」と言うのは、多くの共演者や様々な芸術的演目が雑多に盛り込まれて行なわれるイベントで、一種のバラエティー・ショーのようなものでした。
ですから、たとえば1人のピアニストが最初から最後までたった1人で独演会を行なうようなリサイタル形式の催し物と言うのは、現在でこそそちらの方が一般的ですが、当時はまだなかったのです。それを最初に始めたのはフランツ・リストで、1839年になるまで待たなければなりません。
ヨーロッパの国々では、「協奏曲」と「演奏会」が同じ単語で語られている事からも分かるように、そのような「演奏会」にあって「協奏曲」は正にその象徴的な演目だったのです。
しかも、当時まだ新しい楽器として進化を続けていたピアノとピアノ音楽の世界においては、「ピアノ協奏曲」と言うのは、ピアニスト兼作曲家がピアニストとしての腕前と作曲家としての総合的な能力を一度に披露するのに打って付けでした。
ですから、当時すでにワルシャワではその両方において右に出る者のいなかったショパンですら、正式にプロとして世に出て行くためには、望む望まずに関わらず「ピアノ協奏曲」を書かねばならなかったのです。

また、そんな時代の流れを反映して、当時のピアノ協奏曲は、古典派時代に比べてずっとピアニスト寄りになっていました。したがって協奏的要素(たとえばピアノがオーケストラの伴奏に回ったり、両者が掛け合いをするなど)が減って、オーケストラはほとんどピアノのための伴奏に終始する傾向が強くなります。文字通りほとんど「カラオケ」のようなものです。
ショパンは、たとえばフンメルやカルクブレンナーに代表されるような、そういった古典派とロマン派の間に位置する当時の先輩ピアニスト兼作曲家達の作品をお手本にしていました。
ですから、ショパンのピアノ協奏曲も彼らと同じような傾向にあり、ピアノの優位性に対してオーケストラは極めて控えめになっています。
ところが、そのために、そう言った当時の音楽事情が忘れ去られた後世においては、ショパンはオーケストラ・アレンジが不得手であると言った評判が定説化してしまいます。
それだけならまだしも、その欠点を補おうとして、勝手にオーケストラ・パートを充実させた編曲版までもがいくつも登場してしまうと言う始末です。

確かにショパンはオーケストラ・アレンジが得意だったとは言えないのかもしれませんが、しかしこれは得意不得意の問題と言うよりも、元々ショパンの関心がピアノ独奏曲の方により強く傾いていたと考えた方が正しいように思われます。
ショパンが、心身ともに非常な労力を要する演奏会を好んでいなかったのは事実ですし、また、ピアノの音が小さい事を欠点として常に指摘されるため、オーケストラとの競演にも積極的ではありませんでした。
だからこそ、パリ移住後に名声を確立し、作曲とレッスンだけで生計が立てられるようになってからは、苦手な演奏会をしなくても済むようになったので、そのためほとんど演奏活動をしなくなります。
必然的にオーケストラを伴う作品を書く必要もなくなり、その結果、自ら自分の本分とみなしたピアノ独奏曲の作曲のみに専念するようになるのです。


さて、ショパンが書いた2つの協奏曲のうち、最初に手掛けられたのが本作の《ヘ短調》になります。これは現在《第2番》となってはいますが、それは作曲順と出版順が逆になったためです。

そうなった理由については、ショパンの関係者の証言で、「最初の出版に際して、ヘ短調のオーケストラ総譜が見当たらなかったので、かわりにホ短調を送ったため」(※下田幸二著『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』より)とショパンが語ったと言うものが伝えられています。しかしこのような話には全く現実味がありません。
まず、協奏曲のような大掛かりな作品の楽譜が「見当たらない」なんて話にも現実味がありませんし、そのかわりに別のを送ったなんて話にも全く現実味がありません。
ショパンが《ホ短調》の方を先に出版したのは、当時のショパンがあくまでもそちらの方を自信作とみなしていたからで、現にパリのデビュー公演では《ホ短調》の方を演奏し、それが好評を得て、それで出版にこぎつけたからです。ですから、そうして出版された《ホ短調》の楽譜には、作品の紹介文としてその由がきちんと書き添えられています。
そのような状況なのに、当時まだパリでは無名に近かったショパンが、まだ聴衆の前で一度も披露していない《ヘ短調》の方を先に出版しようと考えていたはずがない訳です。

《ヘ短調》の方が出版されるのは《ホ短調》の出版から3年後の事ですから、作曲されてから早6年もの年月が経っています。
ただし、こちらの《ヘ短調》に関しては、結局パリでは一度も演奏会では披露されていません。しかしながら、当時のショパンはすでに作曲家としての名声も確立し、楽譜も売れていましたから、そのような事はもはや問題にはならなかったのです。


《ヘ短調・協奏曲》が演奏会で作曲者自身によってオーケストラを伴って演奏されたのは、結局ワルシャワ時代におけるプロ・デビュー公演での初演と、その追加公演における2回だけです(※パリ時代には、第2楽章だけが抜粋で披露された事があります)。
その直後から《ホ短調》が着手され、それがワルシャワでの告別演奏会で初演されて以降は、ショパンは《ホ短調》の方を自分の代表作として引っさげ、外国へと旅立ちます。
ただし、ウィーンに到着した当初は、ショパンはまだどちらの協奏曲を披露すべきかについて決めかねていました。
確かに、名人芸的な難易度も含めて、全体的な完成度としては新作の《ホ短調》の方が上と言うのが一般的な評価のようですが、ただし、その独創性や、作品の中にちりばめられた個々の旋律の持つ魅力と言う点では、むしろ最初の《ヘ短調》の方が上なのではないかと私は考えています。

リストはこの《ヘ短調・協奏曲》について、「この作品には新しい詩的な感情が、多くの新しい形式で表現されている」(※属 啓成著『ショパン 作品篇』より)と語ったそうです。

〜次回(ヘ短調・協奏曲のピアノ独奏版)へ続く〜


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