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zoom RSS ショパン:練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1

<<   作成日時 : 2011/11/01 19:32   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1 by Tomoro




Chopin : Étude No.1 in C major Op.10-1 /Tomoro

● 作曲年:1829年
● 出版年:1833年
● 献呈者:フランツ・リスト

 【ジャンル解説】
練習曲(エチュード)は、その名の通り、楽器の演奏技術を習得する手助けとなるように考慮された音楽作品です。
一口に練習曲と言っても、これには大きく分けて3種類あると言えます。

  1. 《ハノン》(シャルル=ルイ・アノン:Charles-Louis Hanon, 1819−1900)に代表されるような、機械的な運指の反復練習のみに特化して、楽曲としての体裁を成していないもの。
  2. 《ツェルニー》(カール・チェルニー:Carl Czerny, 1791−1857)に代表されるような、一応楽曲としての体裁は成しているものの、あくまでも練習曲であって演奏会で弾く事を目的としないもの。
  3. 《ショパン》や《リスト》(フランツ・リスト:Franz Liszt, 1811−1886)に代表されるような、プロが演奏会で弾く事を前提に、最高度の演奏技術を要求すると共に性格的小品としての芸術性をも兼ね備えたもの。


 【作品解説】
ショパンの《練習曲 第1番 ハ長調》は、《12の練習曲 作品10》の第1曲目です。
右手のアルペジオのための練習曲で、右手が4オクターブにもわたる広範囲な分散和音を素早く弾く中、左手がオクターブで壮大なメロディを奏でます。
この曲は、1829年の秋頃に書かれたとされており、当時ショパンが友人宛に書いた手紙で次のようにコメントされていた事から、これがそれに該当するものと考えられています。
「形式に則った大きなエクセサイズを、僕独自のスタイルで作った。僕らが再び会った時に、君に見せよう。」
(※『1829年10月20日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

この手紙は、初めてのウィーン訪問から戻って約2ヶ月後に書かれています。


後年のパリ時代にショパンは、この練習曲を弟子に教えていた際、次のような事を言ったそうです。
「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンはわたしに勧めてくれました。
“このエチュードは役に立ちますよ。わたしの言う通りに勉強したら、手も広がるし、ヴァイオリンの弓で弾くような効果も得られるでしょう。ただ残念なことに、エチュードを練習しても、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです”と、彼は言うのです。
このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、わたしも先刻承知しています。でもショパンの場合には、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすればよかったのです。」
(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著/米谷治郎・中島弘二訳『弟子から見たショパン』(音楽之友社)より)

こう証言しているのはフリーデリケ・シュトライヒャー嬢(旧姓ミュラー)(Friederike Streicher née Müller 1816−1895)で、彼女はショパンから《演奏会用アレグロ イ長調 作品46》を献呈されているお気に入りの弟子の一人で、プロのピアニストであり、これは彼女が伝記作家のニークスに語ったものです。
この証言は、この練習曲の意図を理解する上で非常に参考になりますね。


さて、ショパンが弱冠20歳にしてこのような練習曲を書こうと思い立った動機については、様々な事が言われています。

一つには、同年の春にワルシャワを訪れたイタリアのヴァイオリンの巨匠ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini 1782−1840)に感化されたと言う説。
パガニーニがヴァイオリンで極めた超絶技巧は、当時のあらゆる音楽家達に影響を与えました。ショパンもまた例外ではなく、ショパンは彼の演奏を聴いて強い感銘を受け、《パガニーニの思い出》という変奏曲まで書いています。
ただ、パガニーニのワルシャワ公演が春だった事を思うと、それに感化されて練習曲を書き始めたとすると、その「第1番」がようやく10月になってから現れたと言うのでは、リアクションとしては若干遅いような気がしないでもありません。

もう一つは、自作の協奏曲における技術的困難を自ら克服するための手だてとして書いたと言う説。
その年にワルシャワ音楽院を卒業したショパンは、海外留学のために助成金の援助を申し出るのですが、これが却下されてしまい、仕方なく、友人達が計画した外国旅行に便乗する形でウィーン訪問を果たします。
ショパンは当地で、思いがけない形で2度の演奏会を開く事になりますが、これが大成功を収め、それを受けて、彼はいよいよ本格的なプロ・デビューに向けて準備する事になります。そのためショパンは、ワルシャワに戻ってから 、ついに自作の協奏曲の作曲に着手します。
当時はまだリサイタル形式の公演が行われていなかったため、ピアニスト兼作曲家が世に出るためには、自作の協奏曲を披露するのが習わしだったのです。
そしてそこにはもちろん、ピアニストとしての腕前を誇示するための名人芸も盛り込まねばなりませんでした。当時はリストを始めとするピアノの達人達がひしめく時代でしたから、そんな中で独自性を発揮しようと思ったら、とても一筋縄ではいかなかったのです。
その結果、ショパンは自分で自作の協奏曲の難しさを嘆いたほどで、それで、それを克服するために高度な練習曲を必要とした…と言うのです。


これらの説はどれも、いかにももっともらしいのですが、私は個人的に、実はショパンはリストに誘発されて練習曲を書いたのではないだろうか?と考えています。


リストは、10歳になる前からすでにプロの演奏家として公演活動をしていましたが、11歳の時の1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でツェルニーに師事しています。
リストの《超絶技巧練習曲》は、ショパンのそれと比肩するものとして有名ですが、実はこの曲集は2度にわたって大きく改訂されており、その初稿版が出版されたのは1826年で、何とリストがまだ15歳の時でした。
そしてそれは、ショパンが練習曲に着手するより3年も前の事です。

ショパンが1829年にウィーンを訪れた際、彼はリストの師であるツェルニーから歓待を受けています。
ツェルニー自身が練習曲の大家であり、その弟子のリストもすでに15歳当時に練習曲を出版していたと言うのですから、ツェルニーがその事を、リストと同世代のショパンとの間で話題にしないはずがないのではないでしょうか?
ツェルニーはベートーヴェンの弟子でもあったのですが、かつてベートーヴェンは、「ピアノの演奏法に関する著作を書きたいが時間がない」と語っていた事があり、ツェルニーはその意思を継いで練習曲集などを書き始めたとも言われています。
しかしながらショパンは、そのツェルニーについて、家族や友人に宛てた手紙の中で、彼の事を音楽家としてはあまり認めていないような事を書いています。

「チェルニーは、あの方のどの作品よりも暖かな人でした。」
(※『1829年8月19日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら

「彼(※クレンゲル)は上手に弾きましたが、しかし僕は、彼がもっと(静かに)弾いたら好きになっていたでしょう。彼はとても愛想よくしてくれました;彼は出発前に2時間ほど僕と一緒にいました。彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりで、僕達はその事について色々と話さねばなりませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、貧弱なチェルニーとのそれよりも感謝しています(しっ!)」
(※『1829年8月26日付の家族宛の手紙』より→全文はこちら

「僕はチェルニーとすっかり親しくなった;しばしば2台のピアノで一緒に演奏した。彼は良い人物だ、しかしそれ以外は何も! プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう!」
(※『1829年9月12日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』より→全文はこちら

一度ならず二度三度と…、具体的には触れられていませんが、ここには、ショパンの心象を相当悪くする音楽的な何かがあった事が察せられます。
私には、その答えがショパンの練習曲集だったのではないかとも思えるのです。ショパンが自分の練習曲についてコメントした先の手紙は、この手紙から約1ヶ月後だからです。

ショパンはパリ移住後、完成した《12の練習曲 作品10》を1833年に出版する際、”我が友”と書き添えてこれをリストに献呈しました。
これは、ショパンがパリに移住してから何かとリストに世話になった事への友情の印と言われていますが、果たしてそれだけだったのでしょうか?
そもそもショパンが練習曲集を書こうと思ったきっかけが、リストのそれに刺激されたからだったのではないでしょうか?

リストはどんな難曲でも初見で見事に弾きこなせたと言われていますが、しかしこのショパンの練習曲集だけはそれが出来なかったそうで、そのため彼は、文字通りこれを練習するために、一時期パリから姿を消していたと言う逸話が残っています。
そしてショパンは、そのリストの演奏を聴いて、友人宛の手紙に次のような事を書いています。
「僕は、自分のペンが何を書いているのか分からない状態で君に書いている。と言うのも、今この横でリストが僕のエチュードをいくつか弾いていて、僕から真面目な思考を奪ってしまうからだ。僕は自分のエチュードの弾き方を彼から盗みたいくらいだよ。」
(※『1833年6月30日付、リスト、ショパン、フランコムからフェルディナンド・ヒラー宛の手紙』より)

この寄せ書き風の手紙には、リストとショパンによるこんなやり取りも書かれています。
「[リスト]:君は、ショパンの素晴らしいエチュードを知っているかい? 見事なものだよ。[ショパン]:でも、君の作品がいずれ現れるまでの運命だろう。[リスト]:それは作曲者のつまらぬ謙遜だね! [ショパン]:この手紙の編集長(※リストを指す)は少々僭越だね。彼は、君によく分かるように僕の綴りの間違いをM・マーレーの方式に従って校正しているんだよ。」
(※同上より)

ショパンの練習曲集に誘発されたのかどうかは定かではありませんが、リストはこの3年後に、自らの練習曲集を大幅に改訂したものを出版します。その際彼は、それをショパンにではなく、師匠のツェルニーに献呈しています。
そして、更にその1年後には、今度はショパンが《12の練習曲 作品25》を、当時のリストの内妻であるマリー・ダグー伯爵夫人に献呈しています。
この一連の流れはどこか偶然とは思えず、リストとショパンという当時を代表する2人の音楽家が、心のどこかでライバル意識を持ち合い、お互いを高め合っていたのではないかと、そんな風に想像されるのです。

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.


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