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zoom RSS ショパン:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲(ピアノ独奏版)

<<   作成日時 : 2011/06/02 03:55   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2(ピアノ独奏版)
Chopin : Variations on Mozart's Don Giovanni "La ci darem la mano"in B♭ Op.2 (for one piano)

序奏、テーマ、第1、第2、第3変奏 by Tomoro




Introduction, Thema, Var.I, II, III /Tomoro

第4、第5、最終変奏(アラ・ポラッカ=ポロネーズ風に) by Tomoro




Var.IV, V, Alla Polacca /Tomoro

● 作曲年:1827年
● 出版年:1830年(オーケストラ伴奏版)/2010年(ピアノ独奏版)
● 献呈者:ティトゥス・ヴォイチェホフスキ


 【ジャンル解説】
変奏曲(Variations)とは、ある一つの旋律(テーマ)を用いてそれを様々な形にアレンジし、一つの楽曲として展開させながら、まとめ上げていく音楽作品の事です。


 【作品解説】
《「お手をどうぞ」による変奏曲》、あるいは原題をとって《ラ・チ・ダレム変奏曲》などと呼ばれているこの曲の厳密な題名は、《モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》のテーマによるオーケストラ伴奏付きピアノのための変奏曲 変ロ長調 作品2》で、ショパンにとって、オーケストラを伴った作品としては最初のものです。
ナショナル・エディションの解説によると、ショパンの時代には、こういった協奏的作品には、以下の4タイプの演奏形態が用意されていたそうです。
  1. 1台ピアノ(ピアノ独奏)版
  2. 2台ピアノ版
  3. 室内楽版
  4. 本来のオーケストラ伴奏版
このそれぞれを、演奏場所や条件等によって使い分けていました。
大きなコンサート・ホールでの演奏会を嫌い、サロンで弾く機会が圧倒的に多かったショパンにしてみれば、尚の事、こういった楽譜の準備は必要だったのです。

本稿では今回、この曲をナショナル・エディションによるピアノ独奏版(1台ピアノ版)でお送りいたします(※ただし一箇所だけ、私の耳に馴染んでいる他の版の音を採用しています)。


この曲は、ショパンが本格的に作曲を学ぶためにワルシャワ音楽院に入学してから、2年目の1827年(当時18歳)に作曲されました。
変奏曲としては、その前年に書かれた《ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲》《4手のための変奏曲》に続いて3曲目となる大曲で、前の2曲はこのための習作として書かれていたのかもしれません。
規模は違えども、序奏、テーマ、各変奏、終結部へと至る流れが、ほぼ同じ構成になっています。

また、オーケストラを伴ったショパン作品と言うのは全部で6曲しかなく、それも1827年〜31年までの、ごく限られた初期の期間に集中して書かれただけです。
そのうち今日でもよく演奏されているのは、2つのピアノ協奏曲と、ピアノ独奏用に編曲された《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22》ぐらいなもので、それ以外はほとんど忘れられた作品となっています。
この《「お手をどうぞ」による変奏曲》にしても、シューマンの有名な批評文「帽子を取りたまえ、諸君、天才だ!」によって、その曲名だけは語り継がれていますが、果たしてどれだけの人が実際にその音楽を聴いた事があるでしょうか?

「ピアノの詩人」と謳われるショパンは、その作品のほとんどがピアノ独奏曲で、それ以外では、協奏的作品が6曲、室内楽が5曲(うち《フルートとピアノのための「シンデレラ」の主題による変奏曲》には贋作説あり)、歌曲が20曲と、楽譜が確認されている作品は全部で約240曲ほどあり、その中でピアノを伴わないのは、無伴奏で書かれた歌曲《マズル・どんな花》のたった1曲だけです。

なぜこれ程までにショパンはピアノ音楽に固執していたのでしょうか?
その答えは、彼が生まれ育った時代の音楽事情に関係しています。

ピアノと言う楽器は18世紀になってから生まれており、つまり楽器全体の歴史から見れば新参者で、それが一般に普及し始めるのは、ショパンが10代になった1820年頃からです。
たとえば、ベートーヴェンが1795年に完成させた最初のピアノ・ソナタは、《ピアノ、もしくはチェンバロのための3つソナタ 作品2》と言う具合に、これら2つの楽器がまだ同等に扱われていました。ところが2作目以降になると、ベートーヴェンはもはやチェンバロの方を相手にしなくなっており、そこにも時代の流れを垣間見る事ができます。チェンバロはピアノの前身楽器ですが、構造的に音域や強弱の変化に限界があるため、表現の幅が狭く、バロック音楽のような限られたジャンルでしか使えなくなっていったのです。
ピアノ人口の急激な増加に伴い、必然的にピアノ曲も多く書かれるようになりました。
つまりショパンは、そんな時代の申し子としてこの世に生を受けたと言っても過言ではないのです。
現代でたとえるなら、エレキギターの登場によってロックが生まれ、新しい音楽ジャンルの進化発展に若い才能が情熱を捧げ、ビートルズがそんな時代の申し子となったのと同じ事だと言えるでしょう。

また、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらとは違い、ショパンが音楽家の家庭に生まれなかった事も、彼の創作活動がピアノだけに特化した事と無関係ではありません。
ショパンは、偉大な先人達とは違って、世襲制によって音楽家となるべく英才教育を施されてきた訳ではありませんでした。ショパンの父はフランス語の教師で、彼の経営する寄宿学校では、学業だけでなく躾その他にも気を配っており、その一環として、当時の上流家庭で流行していたピアノが嗜みとして取り入れられ、それがショパンとピアノを結びつけるきっかけとなったのです。ですから、「習い事としてのピアノ」に接する以外に、ショパンには他の楽器に精通する機会もなかったのです(※それについての詳細は『幼年期のグリーティング・カードに見るショパンの家庭環境』で)。

よく、「ショパンはオーケストラ・アレンジが得意ではなかった」と言う通説を耳にしますが、「得意ではなかった」と言うよりは、むしろ「関心が向かなかった」と言った方が正解でしょう。
交響曲を始めとする「ピアノを伴わない楽曲」は、すでにベートーヴェンの時代に古典派の作曲家達によってやり尽くされ、ほぼ完成されてしまっており、彼らの子供世代にあたるショパンのような新しい才能が情熱を見出す余地は、ほとんど残されていなかったからです。

それでいてショパンが、その初期においてオーケストラを伴った作品を書いたのは、当時、ピアニスト兼作曲家が世に出るためにはその手の作品が必要とされていたからです。
つまり、書かない訳にはいかなかったから書いたと言うのが本当のところで、だからこそ彼はワルシャワ音楽院へ入学し、その術を学び始めたのです。

当時は現在のようにまだレコードやCDもなく、もちろんテレビもラジオもありませんから、音楽を伝える手段は生演奏を聴かせる以外にありませんでした。
ですからそれで予め名を売っておかなければ楽譜も売れません。
しかも当時の演奏会事情と言うのは現在のそれとは大きく違っており、たとえば一人のピアニストが独奏曲のみで全プログラムを消化するリサイタル形式のようなものはまだありませんでした。
それは1839年に、かのフランツ・リストによって初めて行われるに至るまで、もうしばらく待たなければならなかったのです。
そもそも演奏会(=コンサート)と言うのは、「共同で行なう」と言う意味の言葉が語源で、協奏曲(=コンチェルト)もまた同じです。
つまり当時の演奏会と言うのは、多くの共演者達によって、音楽、演劇、バレエなどの様々なプログラムが雑多に組み込まれた、それなりに大掛かりな催し物だったのです。
したがってそのような場では、ピアニストはオーケストラを伴った協奏的作品をメインにして演奏しなければなりませんでした。

ショパンは、ワルシャワでこそ右に出る者のいないピアニストとしてすでに有名でしたが、プロの音楽家として大成するには、音楽後進国の自国に留まっている訳にはいかず、その飛躍のためにもオーケストラ伴奏付きの作品が必要だったのです。
ショパンが《「お手をどうぞ」による変奏曲》を1827年の冬頃に完成させていた事は、『1827年冬のヤン・マトゥシンスキ宛の手紙』の記述からも確認されています。

ショパンはそれを、翌1828年に、《ピアノ・ソナタ 第1番 ハ短調 作品4》と共にウィーンの楽譜出版者ハスリンガーに送っており、その事は『1828年9月9日付のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙』にも書かれています。
しかしハスリンガーは、当時ショパンがまだ世界的には無名だった事もあって、なかなかそれを出版しようとはしませんでした。
結局、ショパンが1829年にウィーンを訪問した際に、急遽開かれた演奏会で《「お手をどうぞ」による変奏曲》を披露し、それで好評を得て《変奏曲》の方だけが先に出版される運びとなるのですが、ただしハスリンガーはそのために、若きショパンの足元を見て、演奏会の出演料も出さず、出版料も払わず、その代わりに出版を約束しようと話を持ちかけていたのです。
そのような屈辱的な扱いを受けながらも、演奏会自体は大成功を収め、当時のウィーンの『一般演劇時報』(1829年8月20日付)は、以下のような書き出しでその時の事を報じています。

「先日、ショパンという若いピアニストが、ケルントナー門の王立劇場で演奏を行なった。彼は今まで音楽界ではあまり名を知られておらず、そのすばらしく卓越した才能には、まだ計り知れないものが残されていると思われる。彼の作品や演奏に触れた者は、少なくとも彼独自の形と強烈な個性に対して、天才のひらめきを感じたことであろう(以下略)。
※ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳『ピアニスト・ショパン〈下巻〉』より」

演奏会は2度行われ、ショパンは《「お手をどうぞ」による変奏曲》、《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 作品14》と、当時書き溜めていたオーケストラ伴奏付きの作品をメインに弾きました。

この時の事はちょっとしたセンセーションとして受け入れられたのですが、ショパンがウィーン訪問を終えてワルシャワに帰ってしまうと、移り気なウィーンの音楽界はじきに彼の事を忘れてしまいます。
ショパンは翌1830年の11月に、祖国に別れを告げてウィーンへと移りますが、たった1年で状況はすっかり変わってしまい、前年のような後押しはなかなか得られませんでした。

結局ショパンは失意のままウィーンを後にし、1831年にパリへ渡ります。
ただ、その間に《「お手をどうぞ」による変奏曲》が出版されていた事は、後々ショパンに幸運をもたらす事につながって行きます。

〜次回(「お手をどうぞ」による変奏曲・2台ピアノ版)へ続く〜

ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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