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zoom RSS ショパン:歌曲『消え失せよ…』作品74-6 遺作(2台ピアノ版)

<<   作成日時 : 2011/05/28 19:52   >>

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♪今日の試聴BGM♪

ショパン作曲:歌曲《消え失せよ…》 作品74-6 遺作(2台ピアノ版) by Tomoro




Chopin : Song"Precz z moich oczu...(Remembrance)" Op.74-6 /Tomoro

● 作曲年:1827年(初稿)/1830年(改訂稿)
● 出版年:1859年
● 献呈者:なし


 【ジャンル解説】
一般にはほとんど知られていませんが、ショパンは生涯にわたって20曲もの歌曲を残しています。
その全てが祖国ポーランドの詩人の作品に曲を付けたもので、制作された理由は様々ですが、出版を前提にしたものは一つもなく、全てがプライベートの目的で書かれました。
したがって、これらは全て作曲者の死後に出版されています。

無伴奏で書かれたもの(※歌曲《マズル・どんな花》)が一つある以外は、いずれもショパン自身によるピアノ伴奏が付いています。
本稿では独自に、そのピアノ伴奏をそのままセカンド・ピアノ(※ステレオ左寄り)とし、メロディ・パートを1オクターブ上げてファースト・ピアノ(※ステレオ右寄り)に置き換え、2台ピアノ版としてお送りいたします。


 【作品解説】
歌曲《消え失せよ…》(※《消えろ!》としている著書もある)は、作品74として最初にまとめられた16曲(後にもう1曲追加)のうちの一つです。
これらは、ショパンの友人で音楽家でもあったフォンタナによって、一連の遺作集に引き続いて出版されました。
《消え失せよ…》はその中の第6曲として紹介されていますが、フォンタナは特にこれらを作曲年順には配列しておらず、実際はこの曲がショパンの書いた歌曲の最初のものです。
『ショパン 知られざる歌曲 (集英社新書)』等の著書によってはこれを1830年作曲としていますが、それは改訂稿の方であって、初稿はそれよりも3年前の1827年に書かれています。

この詩の作者はアダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz 1798−1855)で、彼はショパンと同じ時代に活躍したポーランドを代表する国民的愛国詩人であり、政治活動家でもあります。
ミツキェヴィチの書いた原詩の題は『Mへ…』で、この詩はショパンが曲を付けた事もあって、現在、ポーランド国内では、学校のポーランド語教育の読本に入れられているほど有名な作品なのだそうです。
ミツキェヴィチの原詩は全部で10節からなっていますが、ショパンが歌曲に使用したのはそのうちの冒頭の3節だけです。
以下がその原詩の全訳になります。


  『Mへ…』 アダム・ミツキェヴィチ作(1823年出版)

僕の目の前から消え去れ!…(私は)直ちに聞き入れます。
僕の心の中から消え去れ!…(私は)そして、心はそれを聞き入れます。
僕の記憶から消えて無くなれ!…(私は)いいえ、(私はそれを)聞き入れません。
僕と貴女の記憶は(この命令を)聞き入れようとしない。

影が長いければ長いだけ、影は遠くから落ちて来て、
それだけ後悔する車(輪)が広く(円を描いて)廻る…
そうだ、それだけ僕の影が遠くに逃げて行き、
喪を表す黒いテープが幅広い程、それだけ貴女の記憶が長く悲しみで嘆く。

あらゆる場所で、あらゆる時に、
貴女と一緒に泣き、貴女と一緒に遊んだ、
どこでも、いつでも僕は貴女のそばにいる、
僕はいたるところに、魂の形見を置いて来たのだから。
(※ここまでが、ショパンが歌曲に使用した箇所)

それは、貴女が思案深かそうに、小さな部屋の中に一人いて、
知らず知らずのうちにハープに手を近付けた時かも知れず、
そのような時に思い出すだろう: 
(私は)正にこの時、彼にあの歌を唄ってあげたのでした。

それは、チェスで遊びながら、駒を数回動かしただけで貴女を負かし、
チェックした場所からキングの駒を取り出した時かも知れない。
貴女は思い出すだろう: 私達のゲームが終わった時、
(駒は)この様な位置に並んでいたのでした。
                        
それは、舞踏会でのダンスの休みのひと時に、
楽隊員が次のダンスの開始を告げるまで、
貴女が座っていた時の事だったかも知れない、
ペチカの近くに、空いている場所を見つけて、
思い出した時かも知れない: そこに、彼が座っていたのでした。

それは、本を手に取って、寂しい目をして、
恋人達の希望が引き裂かれた話を読み、
その本を閉じながら、深くため息をついて、
思い出す時かも知れない: ああ!これは私達の物語だと。

仮に、その著者が話を複雑にしようとして
最終的に恋人達を結び付けていたとしたら、
蝋燭の明かりを消して、考え込むだろう:
なぜ私達のロマンスはこのように終わらなかったのでしょう。

その時、闇夜に稲妻が光り、
庭の梨が乾いた音を出して、
落ちながら窓に当たり、鈍い音を立てる…
その時、思い起こすだろう: これは彼の魂だ、と。

そのように、あらゆる場所で、あらゆる時に、
貴女と一緒に泣き、貴女と一緒に遊んだ、
どこでも、いつでも僕は貴女のそばにいる、
僕はいたるところに、魂の形見を置いて来たのだから。



詩の原題にある「M」というのは、実はマリラ・ヴェレシュチャクヴナ(Maryla Wereszczakówna)という女性のイニシャルだという事です。
彼女は婚約者がいたにも関わらず、若きミツキェヴィチと恋に落ち、結婚後も2年間ほど不倫関係を続けていたそうです。
つまりこの詩は、その結果別れを余儀なくされた男女の心情を対話形式で表した、作者の実体験に基づく作品だったのです。
しかしながら、当時18歳のショパンが、この詩に纏わるそんな裏話までをも知っていたとはとても思えませんし、仮に知っていたとしたら、そのような作者の個人的な不倫に共感してそれを歌曲にしようなどとは考えなかったのではないでしょうか。

それでは、ショパンがこの詩に曲を付けようと思った理由とは、一体何だったのでしょうか?
私にはそれについて、2つの事柄が密接に絡んでいるのではないかと考えています。
一つはショパンがワルシャワ音が淫でエルスネルに作曲を師事し始めた事。
そしてもう一つは、妹エミリアの死…。

この詩が収録されたミツキェヴィチの詩集は1823年に出版されていて、ショパンはそれを1826年の秋〜冬頃に購入しており、それはちょうど、ショパンがワルシャワ音楽院に通い始めたのと同じ時期になります。
その事は『1827年1月8日付のヤン・ビアウォブウォツキ宛の手紙』に書かれており、その手紙の文脈から、ショパンがビアウォブウォツキに頼まれてそれを買ってあげていたらしい事が分かります。
ショパンの少年期最大の親友であるビアウォブウォツキは、当時足を患って田舎に引きこもってしまっていたため、ショパンはそんな友人のために何かと使いをしてあげていたのです。
ショパンも、単に頼まれて買っただけではなく、自分でもその詩集を読んでいた事は間違いありません。その事は、その後の彼の手紙の記述からも推察されます。
ショパンがこの詩集に興味を持っていたのは、おそらく、音楽院の院長であるエルスネルから、将来国民的オペラを書くために、普段から歌曲を書く練習をするよう言われていたからなのではないかと思うのです。

そんな頃、ショパン家の三女でショパンの末の妹であるエミリアが、かねてから患っていた肺の病気を悪化させて寝込んでしまい、そのまま4月10日に14歳の若さで亡くなってしまいます。
当時のエミリアについては、以下のようなエピソードがあります。
「エミリアはその若さで戯曲や詩をポーランド語やフランス語で書いていて、ショパン家の二人目の神童として通っていた。その早熟の才を示す詩篇は、死の直前まで書きつづけられている。すでに病魔に見舞われた状態で、リンデ家の一人のアルバムにはこんなフランス語の詩も書き残している――

 死ぬことは私の天命
 死は少しも怖くはないけれど
 怖いのは貴方の
 記憶の中で死んでしまうこと

※バルバラ スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』より。」

エミリアのこの詩は、ミツキェヴィチが冒頭の1節で表現した恋愛における別れの心情を、そのまま死における別れの心情に置き換えたものだと言えるでしょう。
ショパンが付けた冒頭のメロディーは、3拍子ながらも葬送行進曲を連想させるものがあり、ショパンはミツキェヴィチの詩にエミリアの詩を重ね合わせ、これにこのような曲を付けたのではないでしょうか。
ミツキェヴィチの原詩の全文を読めば分かるように、ショパンが歌曲に使用した冒頭の3節は、そこだけ抜き出せば、作者の個人的な恋愛物語に限定されない、もっと広い意味での普遍性を持ち得るものです。
それに対して、ショパンが使用しなかったそれ以降の内容は、完全に作者の個人的な経験に基づく具体的な描写が続いています。
ショパンが原題の『Mへ…』を使わずに、この曲の題名をあえて《消え失せよ…》とした意図は、つまりそこにあるのではないでしょうか。

私が、この歌曲をエミリアの死と関連付けて考える根拠はもう一つあります。
それは、この曲が3年後の1830年に改訂を施されている点です。

ショパンはその年、『友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の1830年4月10日付の手紙』で、その手紙の日付のところに、たった一言「エミリアの命日」とだけ書き込んでいるのです。
ショパンは、エミリアの死後、彼女について言及する事は一切なかったのですが、それが、ショパンがエミリアの死後彼女について触れた唯一にして最後のものでした。
つまり、この年、ショパンは何か彼女について思いを巡らせる事があり、それがこの歌曲を3年振りに改訂させる事にもつながったのではないでしょうか。
結果として完成した作品は、出だしは悲痛ながらも、後半は3拍子から2拍子へ、短調から長調へとガラリと変わり、単に別れを嘆き悲しむだけではない、未来へつながる何かを感じさせるようなものに仕上がっており、それは、エミリアの死との関連が想像される《葬送行進曲 ハ短調 作品72-2 遺作》や、《ノクターン 第19番 ホ短調 作品72-1 遺作》に宿る精神と、同じものだとも言えるのではないでしょうか。


ちなみに私は、謎とされているショパンの生年月日に関しては、
「1809年3月1日」説を採っております(※その根拠はこちらで)。
なので、本稿ではそれに則ってショパンの年齢を数えています。


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